罪のはじまりと本質〜信仰入門(4)

「あなたがたは決して死にません。あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」創世記3:5
私たち人間が神のかたちに造られたのは、ひとりひとりが人格をもって、互いに愛し合い、一つになることを喜ぶ存在だということをともに学びました。しかし、残念ながら、私たちの周りはそうではありません。人のいのちの尊厳が踏みにじられ、一つになろうと努力しても、不和と分裂が渦巻く世の中です。その原因はどこにあるのでしょうか。聖書はその問題の根本的な原因である罪を教えています。

神はエデンの園に置いた人にひとつの約束のしるしを置かれました。園の中央の木からとって食べてはならないという戒めです。神は「園のどの木からでも思いのまま食べてよい」と言われました。その中でひとつの木、この木から取って食べてはならないと言われたのです。その木が特別な木で、他の木と種類が違ったのでしょうか。リンゴならリンゴ、それだけを食べ続けて、隣に柿の木があれば、誰だって食べたくなるでしょう。ミカンだけを食べ続けて、そこに梨でもあれば、ぜひ食べてみたいと思うでしょう。そうではないのです。どの木からでも思いのままに食べていいのです。ですから、これはしるしです。何のしるしでしょう。神と人との間の信頼のしるしなのです。
私たちが最も大切なしるしとして使うのは、おそらく結婚指輪でしょう。二人の間の愛を誓うしるしです。キリスト教の結婚式であれば、「富めるときも、貧しきときも、健やかなるときも、病めるときも」どんな時であっても、共に生き、ひとつであることを誓う誓いのしるしです。そこに他の者が入る余地はありません。しかも喜んで自分からくびきをつけるのです。
神が人との間に置いたしるしも同じ意味を持つものです。人がいのちを与えてくださった神に対して、あなたを大切にし、あなたに従いますというしるしです。しかも神は一方的に人に恵みをくださるお方です。無理強いして従わせられるのではない。お与えになった人格、自ら考え、自ら決め、自ら行う者として喜んでそれを選ぶようにと自由をお与えくださったのです。

ところが、そのような神の信頼を人はやすやすと裏切って無にしてしまうのです。蛇が人を誘惑します。「ほんとうに」そうですか?と疑いの心を起こし、「あなた方は決して死にません」、つまり神の言われることはウソだ、と否定し、「あなた方が神のようになる」と誘いかけるのです。
「神のようになる」とは、どんなことでしょうか。それは何でも思うがままをなすことができるという意味です。人は神に造られた者として、愛し、一つとなるべき存在です。それは常に自分を捨て、他者のために生きるということです。神ご自身がそのようなお方だからです。わかりやすく言えば常に「私よりあなた」という原理に生きることです。いままでエデンの園で生きる彼らにはそのような世界しかなかったのです。だから裸であっても恥ずかしくない一致がありました。そして、その愛と信頼のしるしが、園の中央の木からは食べないというごく簡単なしるしだったのです。たとえ、私がしたいと思うことがあったとしても、あなたのためにしない。何かをしなければならないでもない、しなければいいだけのことでした。
そこに誘いかけられたのは、あなたはあなたの思うがままをしたらいい、していい、するべきだ。神の言うことはウソで、もっと素晴らしい世界が開ける。そのような誘いです。「私よりあなた」か、「あなたより私」かの究極の選択を迫られたのです。

残念ながら彼らは罪を選んでしてしまいました。自らその実を取って食べたのです。結果として刈り取るべき代償は大きなものでした。彼らは目が開かれて、裸であることを知ります。もともと裸であった彼らが裸であることを知り、互いを隠したということは、お互いの間に、見せられない、見せたくない、見られたくないという思い、わからない、わかりたくない、受け入れられないという思いが生まれたということではないでしょうか。「あなたよりも私」という原理に支配され、すべてが自分中心、自己中心になったとき、人は人との間に垣根や壁を作ってしまうのです。これが罪の本質です。すべての罪は、いのちの造り主なる神から離れて、自分中心になることから始まります。一つ一つの罪はその表れです。その本質を私たちは認めなければなりません。

あなたの周りにある不和や分裂、その原因を考えてみてください。目の前にあるあれこれの背後にこのような本質的な罪が隠れてはいないでしょうか。それをありのままに認め、悔い改めることから解決は始まるのです。