先日、西関東地区の役員研修会が行われました。そのテーマは「聖書信仰と役員」。聖書が役員について何と教えているのかということ、また、「聖書信仰」とは何か、それを見分けることの大切さについてともに学びました。
聖書信仰とは、私たちが信仰告白に言い表しているように、「聖書は、旧新約六十六巻からなり、すべて神によって霊感された、誤りのない神のことばである。聖書は、神が救いにうちて啓示しようとしたすべてを含み、信仰と生活との唯一絶対の規範である」と信じることです。
その中で重要なのは「無誤」ということばです。「誤りのない」というとき、それはすべてにおいて「誤りがない」こと指します。現代の科学的知識をもってすると、創造に関する出来事、奇蹟の出来事、あるいは歴史的記録においては人の書いたものであって、誤りがあると考える考え方はとりわけ近代以降入ってきました。それが「誤りのない」事実であるかということはともかく、そこに込められた神のメッセージ、愛や赦し、贖いや和解というエッセンスが伝えられるということが重要だという考え方です。
そこで大切なのは「霊感」ということばです。それは、聖霊が神の教えを誤りなく正しく伝えるために筆者たちを導いたということです。彼らも、自らの理解を超えたことを知らされながらもそれを書き伝えたのです。
もし、誤りのない事実の上に聖書が立っていないのなら、その聖書の上に私たちの信仰が立っていないのなら、土台を失った建物に過ぎなくなります。どれだけ立派に見えたとしても、人のヒューマニズム、人間中心の教えは脆く、教えそのものが変質してしまいます。神のことばである聖書という土台に立つことの大切さを覚えたいと思います。