キリスト教会の長い歴史の中で、「うまくいくとき、いかないとき」がありました。いや、むしろ「暗黒の時代」と呼ばれるような時代や汚点を残すような時代も多くありました。旧約聖書を私たちは学んでいますが、「信仰の勇者」と呼ばれるような人たちにも光と影があって、ただただ、神のあわれみのゆえに恵みをいただいたに過ぎないことを教えられます。
なおのこと、人は神から離れ、罪に傾く頑なさや、信仰が形骸化して形ばかりの信仰生活になってしまう傾向を持っています。それが歴史の中で繰り返されてきています。「心の貧しい者は幸いです。神の国はその人のものだからです。」(マタイ5:3)、「わたしは誠実を喜ぶが、いけにえは喜ばない。全焼のいけにえより、むしろ神を知ることを喜ぶ。」(ホセア6:6)とあるように、へりくだって、罪深い、弱き者であることを御前に告白することを主は求めておられるのです。
ところが、人は高ぶります。現代社会は驚くほどの「知」を手にしました。まるでわからぬことなどないかのようです。ネット社会では何でも答えが見つかるかのごとくに見えます。しかし、そこにある「知」は人の真の問題を解決はしません。そうであったら、争いも不平等も、差別も憎しみも解決できるはずですが、ますます、拡がりを見せるばかりです。
人が真にへりくだるには「無力」な者に過ぎないこと、知や努力によっては解決もできないことを認めなければなりません。それは聖霊による他ないのです。聖霊なる神だけが人の限りを認めさせ、神の御前に何者でもない者であるという謙遜と救い、そして、御霊に導かれて生きる新しいいのちを与えてくださるからです。ペンテコステの日、主がくださった恵みを「今も!」と祈り続けていきましょう。そして、主のみわざを見せてくださいと祈りましょう。