今週の17日(土)、阪神淡路大震災から丸20年を迎えます。あの朝、一番に飛び込んでいたのは神戸の街が燃える様子。倒壊する家屋、傾いたビルや高速道路の高架橋。私にとってはちょうどその2年前、新婚旅行で訪れた思い出の地、大きな衝撃でした。
死者6,434名。その8割は木造家屋の倒壊によって下敷き。即死でした。一瞬の出来事です。午前5時46分。ついさっきまでいつものように朝を迎えるはずだった人たちです。今まで頼りにしていたもの、それがもろくも崩れ去る出来事です。築いてきた財産も、健康だけはと気をつけていたとしても、一瞬にして失うときがあるのです。いつかはやろうと思っていたことも、もう遅い。震災は、本当に頼りになるもの、必要なものを峻別しました。生きていくのに必要なのは多くのモノでもなく、お金でもなく、はたまた地位でもはかない名誉でもありません。
そう、命は自分の努力や願いでどうにかなるものではなく、与えられたものであることを強烈に植え付けました。生死の境、あの人が亡くなり、私が残った。それにどんな意味があるのだろうか。それを迫りました。一方で月日はそれを風化させます。人間というもの、かいくぐるようにして経験し、学び得たはずのことでも忘れてしまう愚かなものです。それを対岸の火事と見ていたならばなおさらのこと。20年もすれば、記憶の隅に追いやられ、目の前のことしか見えません。
節目ごとに振り返ってみること。それは学び得た大切なことを忘れないために必要なことです。あの日、あの時、あの場所で、震え、感じ、脳裏に焼き付けたこと。それを思い返すことは、一番大切なこと、永遠に価値あるものを明らかにします。そして、思いを新たに神の御前にそれを確認し、祈りをもって進みたいのです。