戦後80年、私たちの国は戦争をしませんでしたが、絶え間なくどこかで起きています。二度と繰り返してはならないと心に刻んでも、その理想を実現することができないのが人の愚かさです。聖書は上から平和を造ろうとは教えません。一人一人の小さな内なる平和が周りに拡がることを教えます。
ダビデがサウルに追われて逃亡中、ペリシテから民を守りがら移動を繰り返していました。身内の者を養うダビデは、マオンのナバルに丁重に食を求めます。ナバルは裕福な人で、彼の羊飼いたちもダビデが守っていたのです。ところが、ナバルは恩を仇で報いるように突っぱねます。怒ったダビデは部下たちに武装を命じ、報復しようと整えます。これを聞いたナバルの妻アビガエルは、直ぐに行動を起こします。食糧の贈り物を整え、ダビデのもとに仲裁に行くのです。その言葉にダビデは復讐を留めます。
私たちは「話し合えばわかり合える」と思いたいのですが、話の通じない人たいます。そもそも、話のテーブルに着くことすらできない。それが現実です。そういう中でどうするべきでしょうか。
自らがアビガエルになることです。彼女は自分の夫がこうであっても、逃げ出さずに自分のできることをするのです。主が、ここに置いてくださっているということは自分に果たすべき務めがある。それを賢く、懸命に果たします。もう一つは、争いを止めるために平和の使者として努力を重ねているアビガエルのために祈ることです。
もう一つは、自らの心の中の復讐心、それを神に委ねることです。「復讐はわたしのもの。 わたしが報復する。」(ローマ12:19)と言われる主に委ね、むしろ、「敵を愛せ」と言われる主のことばに自らをささげ生きることこそ私たちの生き方です。「御国が来ますように」と祈りつつ、地上で主の平和の器となること。これをともに祈りましょう。