ヒゼキヤがアッシリヤの脅かしに向き合っていた「そのころ」、病気で死にかけます。ヒゼキヤは主に祈り、泣きます。それは自分のいのちのことだけではありません。「まだ私には地上でなすき、なすべき務めがあります。真実を持って主に立返る歩みを導いてきました。そして、今、大きな敵と試みに向き合うこの時に私が死ぬわけにはいかない。」それが彼の心の内でしょう。すぐにイザヤを通していやしの言葉をいただきます。しかも、そのしるしとして、日が十度戻るのです。
そんな大きな恵みをいただいた神の人ヒゼキヤが高ぶるのです。バビロンから来た使者が見舞いに来たというので、国の財産、すべてを見せてしまうのです。そこには、これだけのことを私はやってきたという誇りの心がやってきたのでしょう。自らの業績を誇り、神に栄光を帰すことよりも、「数えてみよ我が栄光」。こういうものを求めるようになる。これがヒゼキヤの高ぶりです。
イザヤを通して語られたのはさばきの言葉、すべてのものが取り去られる日が来るということばに、ヒゼキヤは高ぶりを捨ててへりくだります。そして、言います。『「あなたが告げてくれた主のことばはありがたい。」彼は、自分が生きている間は平和と安定があるのではないか、と思ったのである。』それは、本来、今すぐに取り去られてもおかしくない。へりくだった私にせめて恵みを与えて、引き延ばされたからです。
私たちの戦い、それは「悪魔の策略」とエペソ6章にあるように、主から引き離そうとする力は強く働くのです。地上の命を生きている限り、それは避けられません。しかし、それを示されたときに、へりくだって神に立ち返るなら、主は恵み豊かにあられる。十字架の主の御前に、過ちに陥り、完全でありたいと思いながらそうありえない小さな罪深い私たちを導き給えと祈りつつ進みましょう。