「再出発はどこから始めるのか」第二歴代誌30:1-9

 アハズの治世、アラムとイスラエルが手を組んで攻め込もうとするその時、イザヤを通して「彼らを打つ。だからしるしを求めよ」と主はアハブに迫ります。しかし、アハブは信じません。ヒゼキヤはそれを見ていたことでしょう。今は自分の時ではない。でも、いざ自分が王になったときにはと時を待っていました。
 彼が王になったとき、まずしたことは、神殿の立て直し、聖別です。聖別するとは、主にふさわしからざるものを捨て、主を礼拝するために整えることです。
 次に取り組んだのは、過越の祭です。それは、自分たちの原点、エジプトの奴隷であった私たちを贖い、救い出し、主の民としてくださった。その恵みとあわれみを覚え告白することです。しかも、彼は北イスラエルにも呼びかけるのです。南北が分裂してすでに200年が経っています。大半が嘲り、物笑いにした中、これに応える者たちを主は残しておられ、彼らもともに祭りをささげます。大きな喜びに満たされました。
 私たちが心に留めたいことの第一は、私たちにも聖別が求められていることです。コロサイ3章には、捨てるべき古い人、主にふさわしからざるもののが出てきます。それを見分け、主に喜ばれることとしっかり分けて立つのです。
 第二は、私たちが自分たちの原点として立ち返るべきところ、それは礼拝、とりわけ聖餐です。どこから贖い出され、どのように愛され、今ここに立っているのか。それを新たにすることが求められています。
 第三に、ヒゼキヤが全イスラエルに呼びかけたように、私たちも恵みは分かち合うためにある。そこに立ち返ったヒゼキヤのように、私たちもこの恵みを自分たちだけのものにするのではない。多くの人たちと分かち合うために、私たちは召されているということを新たにさせていただきたいと思います。ここに新たに主に立ち返る歩みをさせていただきましょう。