教会は誰のもの?私は誰のもの?

 「教会は誰のものか」と問われたら、迷いなく「キリストのものです」と誰もが答えることでしょう。それでは、「あなたは誰のものですか」と問われたらどうでしょうか。迷いなく「キリストのものです」と答えられるでしょうか。そして、そのために「どんなものでも捨てられますか」と問われたらどうでしょうか。主イエスさまの弟子たちは言います。「ご覧ください。私たちはすべてを捨てて、あなたに従って来ました。それで、私たちは何をいただけるでしょうか。」(マタイ19:27)
 弟子たちは目に見えるものを捨てて、イエス様に従いました。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう」と招かれたとき、ためらいなく、舟も網も、父も雇い人もみな捨てて従ったのです。一方で捨てきれないものがありました。それは「自分」です。私たちも同じことが問われます。しかし、人にとって、「自分を捨てる」ことほど難しいことはありません。あくまで自分にしがみついて、「あなたのみこころのままに」と明け渡すことができないのです。
 イエスさまは「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。」(マタイ16:24)と言われました。そうです。「自分の十字架を負って」です。それは、自分の罪深さの自覚です。「こんな罪人の私のために主イエスさまが十字架でいのちを捨ててくださった。これほどまでに愛され、大きな恵みとあわれみをいただいた。それが私だ。」ただただ、ここに立つということです。
 一人一人がここに立つことによって、教会のかしらはキリストであることが確かなものとなり、そのみこころに生きるために自らを捨てる歩み。それは同時に、キリストの愛によって生きる教会となるのです。「我らはキリストのもの、主はわれらのもの」(讃美歌232)と歌いつつ進みましょう。