私たちの教会では、毎年正月明けに餅つきをしていました。今年はコロナで途絶えて以来、久しぶりです。
日本の年中行事の中では暮れに餅つきをして鏡餅を供え、1月の11日に鏡開きをして餅を食す習慣があります。鏡餅は餅を神仏に供える正月飾りで、穀物神である「年神(歳神)」への供え物であり依り代(神々が宿る場)とされています。鏡餅の由来は、神事に使われた鏡、また、三種の神器の一つである八咫鏡(やたのかがみ)を模ったものだと言われます。それを下げて食べるのですが、刃物で切るのは切腹を連想させるので、「切る、割る」ということばを避けて「開く」という言葉を使います。鏡は神話に基づいて円満を、開くは末広がりを意味する縁起を担いでいます。
新年の餅はそんなルーツを持っている訳ですが、私たちキリスト教会にとって、どんな意味があるのでしょう。まぁ、そんなに堅い言われなどなくとも、楽しい交わりならいいじゃないという向きもありましょう。でも、ちょっと意識してみると、ひと味違ったものになるかもしれません。
米の収穫、あるいは豊かに与えられていること、それは「我らの日ごとの糧を今日も与え給え」と祈る主への祈りの答えであり、また感謝です。米など口にできなかった時代もあったのです。ですから、餅はハレの日の食べ物でした。恵みの感謝です。数え切れない米の粒がふやかされ、蒸され、ひとところに入れられ、つかれる。バラバラ、粒々だったものが、一つ餅になる。それも誰かがやるんじゃない。みんな総出で一つ餅にする。そして、老いも若きもみんなで一つ餅を分けて食する。餅つきの楽しさ、おいしさだけではなくて、それは、とっても教会的だなぁと思うのです。そんなことをちょっと心に留めて餅つきをしたいなぁと思います。私はいないのですが・・・残念!