高貴高齢者、幸輝高齢者

 老いは誰にでも必ずやってきます。できないことが一つずつ増え、できていたはずのことができなくなっていく。こんなはずじゃなかったと思いたいのですが、そうはいきません。抗う思いがあっても、現実は思うようにはいかず、思いはどこか過去を振り返っては昔はよかったと、どこか後ろ向きになりやすいものです。
 いい言葉を目にしました。高貴高齢者と幸輝高齢者。ギラギラと欲張った心、いらぬ功名心や人に持ち上げられたい心、何かを成し遂げたいという成功指向や周りの視線。人生のどこかでそのような欲というものに駆られていたこともあったことでしょう。「空の空。伝道者は言う。すべては空。」(伝道者の書12:8)人の欲はむなしく、すべては神の賜物であったことを感謝することができたらなんと幸いなことでしょう。
 自分の力や影響力手放すことができず、野暮ったく指図したり、口を挟みたくなるような思いがよぎることもありましょう。それでも、続く人たちを見守り、訊ねられたら余計なことまで口にせず、「私のときはこうだった」なんて、過去の栄光、自慢話に心を向けず、ニコニコとしていられたら、「いてくれてよかった」と、周りに励ましと慰めを与える存在になることができたらなんと幸いなことでしょう。
ただ願うのは、これまで生かされ、与えられた恵みを、日々与えられているもの、いのち生かされている恵みのすべてを感謝し、やがて迎えられる天の御国を仰ぎ見、周りの祝福を祈ること。そのような高貴な、そして、幸せに輝く老いを迎えられたらと願うのです。私自身も、自分にも言い聞かせ、これから先はこのようにと考えるような歳になってきました。「彼らは年老いてもなお実を実らせ、青々と生い茂ります。」(詩篇92:14)そのような成熟を目指していきたいものです。