「苦しみを通して神に近づく」第二歴代誌33:1-13

 信仰に立ったヒゼキヤを挟んでアハズとマナセは、かつてない程に神から離れた王でした。
大きな違いは、マナセが主に立ち返ったことです。どのように導かれたのでしょうか。
 マナセは、主を捨てて、ありとあらゆるものを拝みました。バアルとアシェラ、天の万象、子どもをいけにえにするモレク、卜占、まじない、呪術。霊媒に口寄せ。ヒゼキヤの時代も耐えていたアッシリヤの脅威がさらに厳しく迫ってきました。「藁にもすがる思い」で拝んだのでしょう。人は恐れに満たされると手当たり次第、すがる思いで頼れるものを探します。そのような彼と民を主は放ってはおかれません。預言者たちを通して警告しますが、聞く耳持たずでした。
 主は、マナセをアッシリヤの手に渡します。自分の国から引き剥がされ、王としての地位を奪われただけではない。青銅の枷をはめられて自由を奪われた。すべてを奪われます。それはヨブの思いにも通じることでしょう。「安らぎもなく、休みもなく、 憩いもなく、心は乱れている。」(ヨブ3:26)
 この苦しみの底で、主の前に大いにへりくだり、祈ります。「喉元過ぎれば暑さ忘れる」ように、主の恵みに心に留めることがなかったのがアハブですが、マナセは徹底して全てを失う底付き経験をして、神に立ち返るのです。それは放蕩息子のたとえ話にも通じます。人は何もかも失い、自分ではどうにもできないと認めざるを得ないようなところに置かれて、初めて神に祈る心にされるのです。そのような者を神は待っておられるのです。
 「苦しみにあったことは私にとってしあわせでした。それにより私はあなたのおきてを学びました。」(詩篇119:71)。苦しみにあった時に、主よ、どうぞあなたが教えようとしていることを知らせてくださいと祈り、また、そうでなくとも主と共に歩むことができたら、何と幸いなことでしょうか。