主イエスは復活の日、エマオに向かう途上の二人にお姿をお現しになりました。しかし、彼らの目はさえぎられていて、イエスであることがわかりませんでした。何が彼らの目をさえぎっていたのでしょうか。
復活は突然の出来事ではありませんでした。弟子たちには何度となく、十字架とよみがえりについてお話しになっていました。しかし、弟子たちはいざ、それが起こっても、受け入れることができませんでした。この弟子たちはこう言います。「この方こそイスラエルを解放する方だ、と望みをかけていました」(21)。イスラエルはバビロニヤによって都エルサレム陥落後、常に被支配国でした。バビロニアの後はペルシャ、ギリシャのヘレニズム時代を経てローマ。彼らの願いは、MAGAならぬ、MIGA、Make Israel Great Againです。その彼らによみがえりはにわかには信じられないのです。
それは今を生きる私たちにも同じです。人はみな目の前の何かを解決したいものです。それを乗り越えたいと思います。一方、ヨハネの4章にでてくるサマリヤの女に主イエスがかけた言葉は「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」でした。目の前の問題はこの人目を避けて井戸に水を汲みに来なくてもいいことでした。しかし、イエス様が導いたのは、もっと根源的な問題です。それを求めずに、自分の思いだけを願うこと。それが主イエスの与える恵みをさえぎるのです。
主は聖書を説き明し、『キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、あらゆる国の人々に宣べ伝えられる。』(46、47)ことをお示しになりました。弟子たちの心はそれに心燃やされます。そうだ!そうだったんだ!と。私たちの願いだけを願っていたら、主の恵みは見えません。主がくださる恵みは、罪赦されて新しい人に造り変えられること。それこそが、私たちに与えられた恵みなのです。