「自由は愛に向かう」ガラテヤ5:1, 5, 13-15

 私たちが何かことをするとき、同じことであってもどのような心でそれをするのか、どのような思いで生きているのかが問われます。「キリストは、自由を得させるために私たちを解放してくださいました」という自由は、「しなければならない、させられた」から、自ら進んでどのように生きるのかが問われるのです。
 一緒に学んできた旧約、イスラエルは王国が不信仰のゆえに傾き、転げ落ち、捕囚の憂き目に遭いました。彼らはそれが律法を蔑ろにしたからだという反省に立って、帰還とともに「主に立ち返ろう、主に従おう」と向かいました。はじめはよかったのですが、それが律法を守ることに終始し、律法主義、パリサイ人を生み出し、自らを誇り、人をさばいては見下げるような「奴隷」になり下がった。かたちは変わっても同じ傾向を人はもっています。パウロはここでもう一度、自由を強調します。
 そして、「自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕え合いなさい」と進みます。私たちの交わりには、様々異なった考え、意見や思いがあります。神の家族という安心感からか、傷つけ合うことを避けて遠慮と配慮を重ねる世よりも「素の自分」というものが現れやすい傾向を持っています。そこに肉が働くと「互いに、かみつき合ったり、食い合ったり」ということが起こったりします。だから、「愛をもって互いに仕える」。しかも自由、自ら進んでということが求められるのです。それはキリストの愛の姿です。その足跡に従うのです。
 私たちの最長老の兄姉が人生最期の時を迎えつつあります。それはまた、誰にでも訪れるものです。「すべてのことを受け入れ、すべてを感謝のうちに受けとめる。そして、いのちの恵みに満ちあふれ、無償の愛を持ち、そこにいるだけで慰めを与える人」(ポール・トゥルニエ)そのような歩みを、この年もともに献げていきましょう。そして、父なる神に感謝を献げようではありませんか。