「折にかなった助けを受けながら」マタイ2:13-15

(松本雅弘師)
 奉仕していた教会を離任する日が近づいていたある日曜日、教会のトイレで「先生、イエスさまもトイレに行ったのですか」と尋ねられた。事故で大きな痛みを抱え、信仰を求めて教会に来た方だった。私は「イエスさまもおしっこもウンチもしたと思うよ」と答えると、彼は安心した表情で帰っていった。
 ヨハネは「ことばは人となり、私たちの間に住まわれた」と語る。神が人となられたとは、単に人の姿を取ったというだけでなく、どのような質の人となられたかが重要である。
 クリスマスの物語は、祝福の枠外にいた東方の博士や、蔑まれていた羊飼いたちに最初に救いの知らせが届けられたことを示す。救い主のしるしは「布にくるまれ、飼い葉桶に寝かされている」ことであり、この布は「おむつ」であったと言われる。つまり救い主は、栄光に満ちた強い存在としてではなく、守りを必要とする弱い赤子として来られた。誰もが安心して近づけるためである。
 成人後のイエスも、人々に仕え続ける中で疲れ、舟の上で眠られるほど弱さを抱えておられた。「人の子には枕する所もない」と語られたように、休む場所も少なかった。だがその弱さは信頼を損なうものではなく、むしろ私たちに親しさを与える。弟子たちに「心は燃えても肉体は弱い」と語られた背景にも、イエスご自身の経験がある。
 ヘブル書は「私たちの大祭司は、弱さに同情できない方ではない」と語る。すべての点で私たちと同じように試みに遭われた主だからこそ、私たちは大胆に恵みの御座に近づき、折にかなった助けを受けることができる。弱さを知り、共に歩んでくださるこの主イエスに守られ、導かれながら歩んでいきたい。