「いのちの道を選べ」エレミヤ21:1-10

 すでにエホヤキンの時代にユダはバビロンに降伏し、財宝は奪われ、国の主だった人たちは捕囚にされて傀儡王としてゼデキヤが立てられました。骨抜きにされたユダだったのにもかかわらず、ゼデキヤはバビロンに反抗したため、エルサレムの都が包囲された。そのような状況下でゼデキヤは一縷の望みを託してエレミヤに主のみこころを尋ねるのです。
 エレミヤを通して語られたメッセージは明快です。「いのちの道と死の道」、二つの道をあなた方の前に置く。死の道というのは、このまま都に留まれば剣と飢饉と疫病によって死ぬ。一方、降伏する者はそこから救い出されていのちを得る。このどちらを選ぶのかをあなた方は今問われているということをエレミヤは告げるのです。こういう出来事は、時代を超えて、国を超えて、民族を超えて、同じことが人のうちにも起こります。沖縄には集団自決という痛ましい記憶があります。鬼畜米兵の手に落ちるなら、自ら死を選べという命令に洗脳されて従った人たちです。
 助かる者、助からない者、その命運を握るのは「プライド」だと思うのです。自分の手ではもうどうすることもできない。だから全てを手放して、されるがままになすがままに委ねようした人はここで助け出されるのです。しかし、自分の手でしがみついて、握りしめてるものを手放すことができなかった人はいのちの道を選ぶことができなかったというのがこの出来事の問いかけです。
 「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」(マタイ11:28)のことばには、イエス様の前にすべてを明け渡して重荷下ろす招きがあります。握りしめているもの、手放せないもの、たくさん自分でどうにかしなければならないというもの、それらを手放したとき、主が与えてくださる「いのちの道」へ導かれる。それを選び取ろうではありませんか。