ユダはバビロンに包囲され、預言者エレミヤは「都にとどまれば滅びる。カルデア人のもとに出て行く者は生きる」と語り続けました。それは不信仰へのさばきを認めつつも、神が備えられた「命の道」を選べという招きでした。しかしその言葉は士気をくじくとして首長たちの反感を買い、エレミヤはマルキヤの穴に投げ込まれます。度重なる厳しい迫害下にあっても彼が語ることをやめなかったのは、召命の時に与えられた「恐れるな。わたしがあなたとともにいて救い出す」という主の約束を握っていたからです。実際、神は在留異国人の宦官、エベデ・メレクを用いて彼を救い出されました。
一方、ゼデキヤ王は首長たちに「あなたがたに逆らっては何もできない」、エレミヤを助け出しては、「主は生きておられる」と口にします。でも、「カルデア人に投降したユダヤ人たちが私をなぶりものにするかもしれない」との恐れも持っています。人の目を恐れ、決断できずに揺れ動き、ブレブレなのです。それは、私たちの弱さを映し出します。やがては、剣と飢饉と疫病で、エルサレムから逃げ出し、逃げ出す途中を捕らえられ、連れて行かれた先で自分の目の前で息子たちを殺され、目をえぐり出され、鎖につがれるという最後を見ていくことになります。
私たち日本人は、とかく周りを見て自分の立ち位置を決め、周りがどうするかということを見てことを決めます。しかし、「私は」と立つ人というのは「生ける神の御前に置かれ、生かされている私」です。エレミヤは、主のお言葉「主が私を立たせ、共にいる。どんなことがあっても救い出す。」とお約束を信じたゆえに臆することなく、投獄をも、命狙われることをも恐れず、主のお言葉を語り続けました。
私たちも、エレミヤの生き方、そしてもう一方の人目を恐れるゼデキヤの生き方から、主が私を救い、神のものとして立たせてくださってる。そこの立つ歩みをしていきましょう。