使徒たちの宣教の始まり、そのスピリットは、「私たちは、自分の見たこと、また聞いたことを、話さないわけにはいきません」(使徒4:20)というものでした。イエスが与えてくださったご命令に従ったとか、そのための計画を練ったというよりは、むしろ、ただ復活の主の救いの恵みを分かち合いたいと御霊に突き動かされて始まったのです。そして、その宣教の始まりはペンテコステです。いっときに三千人が救われるという神の御霊の圧倒的な顕れのときでした。
主は、「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。」(マルコ16:15)と宣教の使命を与えてくださいました。また「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい」(2テモテ4:2)と言われます。
一方、私たちの時代と国、いえ、世界中、いつの時代も宣教は簡単ではありません。ペンテコステ以降の使徒の宣教の歴史は迫害との戦いであり、また、パウロの伝道旅行の様子やそこで生まれた教会に宛てた手紙を見ると、常に世との戦いがあります。主の宣教はいつもこの世の暗やみの力との戦いであるからです。「時が良くても悪くても」、時代の流れの中で言えば、ペンテコステのようなリバイバルの時があり、また、困難と戦いながら忍耐を強いられる、時がある。今はどうでしょうか。時は悪いのです。
先週はJECAの全国運営会議がありました。JECAの目的の一つは宣教協力です。先の宣教の使命はどのように果たせるでしょうか。一つの教会が、一人が全世界を飛び回ることなどできません。教会は互いに協力し合って、この使命に生きるように導かれています。時が悪い、そのような中にあって、しかし、私たちは、まず、自分のできることから喜んで献げることではないでしょうか。