「あえて犠牲を払う愛」ホセア2:16-3:5
ホセアは自分の結婚関係という経験をして、神様の愛の大きさというものを伝えることを命じられた預言者でした。2章では、姦淫の受け入れ難い、赦し難い思いが出てきます。そして、神は「垣根を巡らし、石垣を積む」と言われます。アハ Continue Reading →
身の周りの整理をする
6月の大掃除では、コロナで活動が停滞していたところから動き出し、食堂・台所と玄関の整理と掃除をしてスッキリしました。一方で牧師室はそのまま。狭い部屋には私しか立ち入らなくなったことをいいことに、散らかし放題、最低限、困 Continue Reading →
「あわれみゆえに私の民」ホセア1:1-11
ヤロブアム二世の治世、アモスはさばきを告げることを通して悔い改めを迫りました。ホセアは同じ時代を生きた預言者として、自らの経験、結婚生活を通して語ることを求められました。ホセアにも感情があります。苦しみ痛みあるいは悔し Continue Reading →
「平和をつくる者は幸い」マタイ5:3-10
「戦争は決してしてはならない。」その惨禍を通り抜けた世代の先達はみなそれを語り伝えます。戦後79年、戦争をしなかった国は国連加盟193カ国の中でわずか8カ国に過ぎません。そのうちの一つに数えられていることは感謝なことで Continue Reading →
「繁栄の陰に隠れる闇」第二列王記14:23-28, アモス2:6-16
エフーの時代から、「主はイスラエルを少しずつ削り始めておられた」(10:32)とあるように、北王国はヨルダン東岸をアラムに奪われます。アラムは南ユダのエルサレムにも迫る勢いをもって、イスラエルを苦しめました。ヨアシュは Continue Reading →
「中途半端な信仰では」2列王記13:14-25
「主への熱心」のために力を尽くししたエフー、アラムに攻められ、苦しみの中で主に呼び求めた息子エホアハズ、その息子であるヨアシュ、彼らに共通するのは中途半端な信仰です。彼らは一方でヤロブアムの罪、偶像礼拝から離れないので Continue Reading →
「きよめは徹底的に」第二列王9:1-10
ヤロブアムの道、それは偶像礼拝です。アハブの道、それはバアル礼拝です。手腕家で国の繁栄をもたらしたアハブは、近隣諸国との外交のためにシドンの王の娘イゼベルを迎え、同時にバアル礼拝が持ち込まれてきました。カルメル山での輝 Continue Reading →
「信じることはごく単純なのに」2列王記5:1-14
預言者としてのエリシャの働きは、主の契約に基づくエリコとベテルの祝福と呪いから始まり、10の不思議な奇蹟が続きます。その中でも最もよく知られているのが、アラムの将軍ナアマンのいやしです。 隣国にして敵国アラム、その将 Continue Reading →
「エリコとベテル、祝福とのろい」2列王記2:18-25
エリコの水が癒やされ、一方でベテルの子どもたちが熊にかき裂かれる。一見、不可解に思えるような出来事がここに出てきます。聖書の中には神罰、聖絶という出来事があります。そして、今も起こる争い、紛争、戦争、悲惨な、残酷な出来 Continue Reading →
「あなたの創造者」創世記1:1、2コリント5:17
「初めに神が天と地を創造した」。 聖書は万物の創造者を教えます。この世界は偶然の産物ではなく、神が造った必然の作品です。それゆえ、人間の生きる意味や進むべき方向は、この創造者にあります。素晴らしいことに、この神は実在 Continue Reading →
「恵みと使命を引き継ぐ」2列王記2:1-14
主がエリアを竜巻に乗せて天にあげようとされた時、エリヤはベテルに、エリコに、ヨルダン川の向こうへと動きます。預言者のともがらたちが、エリシャに「今日あなたの主人が天にあげられることを知っていますか」と尋ねます。エリヤは Continue Reading →
「恵みの一デナリ」マタイ20:1-16
このぶどう園の主人は、働く労働者を雇うために朝早く出かけ、1日1デナリの約束でぶどう園に送りました。その後、9時頃・12時頃・3時頃・5時頃にも出かけ、労働者を雇いました。夕方6時になり、主人は最後に来た者から順に1デ Continue Reading →
「困難なときどうするか」2列王記1:1-10
コロナ後、捕囚からの解放と重ね合わせながら学ぶ予定でした。背景を理解するために旧約聖書の流れを学んでいますが、学びを進めると「どれだけ人が罪深いのか、一方で、どれだけ神はあわれみ深いのか」を民の歩みから教えられます。私 Continue Reading →
「結末を見よ」1列王記22:37-40
人の結末には3つのことがあります。一つは誰にも例外なく訪れる「死」、どのように迎えるのかを考える「最期のとき」、そして、「その向こう」です。アハブは反面教師です。主の恵みのお取扱いを拒み続けたその結末。それを対岸の火事 Continue Reading →
「そそのかしと裏切り」1列王記21:17-26
アハブはナボテのぶどう畑を欲し、彼を殺して奪い取りました。そそのかしと裏切りがありました。分かっているけど止められないのか、あるいは本当は分かっていないのか。アハブはこの前に三回、大きな主のみわざを見ます。バアルの預言 Continue Reading →
「そそのかしと裏切り」1列王記21:17-26
アハブはナボテのぶどう畑を欲し、彼を殺して奪い取りました。そそのかしと裏切りがありました。分かっているけど止められないのか、あるいは本当は分かっていないのか。アハブはこの前に三回、大きな主のみわざを見ます。バアルの預言 Continue Reading →
「去る者、継ぐ者」1列王記19:14-21
エリシャにとって召命の出来事は突然です。ようやく雨が降り、耕せるようになりました。12くびきもの牛を使う広い畑で暮らしている彼はこれから畑をやるぞ!というところでした。そのところにエリアが外套を着せ、働きを委ねるのです Continue Reading →
「去る者、継ぐ者」1列王記19:14-21
エリシャにとって召命の出来事は突然です。ようやく雨が降り、耕せるようになりました。12くびきもの牛を使う広い畑で暮らしている彼はこれから畑をやるぞ!というところでした。そのところにエリアが外套を着せ、働きを委ねるのです Continue Reading →
「神の家族の幸い」ローマ16:1-13
パウロはローマ人への手紙の最後に挨拶を書き送ります。そこにはたくさんの名前が出てきますが、その中でも13節の「主にあって選ばれた人ルフォスによろしく。また彼と私の母によろしく。」と出てきます。 森永製菓の創業者、森永 Continue Reading →
「勝利と恐れ」1列王記19:1-18
エリヤは輝かしい勝利の陰に大きな疲れを覚え、イゼベルを恐れて逃げます。向かった先はユダの最南端、ベエル・シェバ。荒野に入って死を願います。私たち人は、物事がうまく進んでる時はハイになり、どんなことでもできるような気にな Continue Reading →
「火をもって応える神」1列王記18:16-46
北王国イスラエル最悪と呼ばれるアハブ王、そこに預言者エリヤは「私のことばによるのでなければ、ここ数年の間、露も降りず、雨も降らない。」と神のさばきを告げます。そして、その三年目、450人のバアルの預言者と400人のアシ Continue Reading →
「誰よりも悪王、しかし、かめの粉は尽きず」1列王記16:29-17:16
ヤロブアムからアハブに至るまでの歴史は、王の数が7人です。みなヤロブアムの道に歩んだと言われます。人心束ねて国を一つにするためには第一のもの=神が必要です。本来、全イスラエルにとっては主に仕えることでした。それに代わる Continue Reading →
「奉仕の報酬」1テモテ3:1-13
世の中では人を選ぶ・選ばれるというのは大変なことです。多くの人が面倒を避け、役を押しつけ合ったり、損得勘定でものを考えたりします。教会というところは奉仕で成り立つ交わりです。誰しも同じように与えられている一日24時間、 Continue Reading →
「主イエス・キリストの勝利」1コリント15:45-58
コリントの信仰者と教会には様々な問題がありました。私たちもそうですが、人はいつも目の前のことで精一杯になります。パウロはそれらを教えてきて、手紙の最後に「兄弟たち。私があなたがたに宣べ伝えた福音を、改めて知らせます。」 Continue Reading →
「いのちの目的」ヨハネ19:17-30
イエス様の十字架、その最期は「完了した」ということばで霊をゆだねられました。「成し遂げられた、終わった」とも訳されることばですが、それはイエス様がご自身の人としての使命を終えたいわば、いのちの目的です。イザヤ書の預言で Continue Reading →
「数が問題なのではなく」2歴代誌13章
北と南に分裂したイスラエル、南王国のレハブアムは北王国奪還を神の人シェマヤに留められましたが、代が替わり、アビヤは争います。北の10部族に対して南はユダとベニヤミン、そして逃れてきたレビ人。兵の数も80万対40万、倍と Continue Reading →
「うまくいくとき、いかないとき」2歴代誌11:13-17, 12:1-12
南北に分裂したイスラエル、北のヤロブアムの道は神を捨て、偶像に向かう道でした。一方南のレハブアム、彼は王国奪還を試みようとしますが、神の人シェマヤに告げられたことばに従い、南王国を固めます。北からは職を解かれたレビ人、 Continue Reading →
「偶像を生み出す心」1列王記12:25-33
イスラエルの王国はダビデからわずか三代で分裂してしまいます。ヤロブアムは「エルサレムの宮で礼拝することになっているなら、王国はレハブアムに再び帰るだろう」と恐れ、金の子牛を作り、「ここに、あなたをエジプトから連れ上った Continue Reading →
「こっちもこっちなら、そっちもそっち」1列王記12:1-20
ソロモンの罪ゆえに、王国を引き裂くさばきの宣告がすでにされました。彼の存命中には北に南に敵対する者が現れ、内部からは家来の手腕家であったヤロブアムがそれがゆえに王に追われエジプトに逃亡していました。彼はすでに預言者アヒ Continue Reading →
「いいよ、いいよと言ってる間に」1列王記11:1-13
ソロモンは神殿奉献の祈りにおいて、「罪に陥らない人は一人もいません」と告白し、罪こそが最大の問題であることをわきまえているはずでした。ところが、「言うは易し、行うは難し」です。彼が犯した罪過ちと原因、そして、私たちが身 Continue Reading →
「主は私の羊飼い」詩篇23篇
詩篇23篇は多くの人に親しまれてきました。どこか牧歌的なイメージがしますが、羊飼いというのは過酷な労働です。ダビデは自身の経験をもとに歌いました。羊は人に飼育されなければ生きていけない動物です。同様に私たちは本来、羊飼 Continue Reading →
「ソロモンの祈りと主のことば」1列王記8:22-30
ソロモンは7年かかって荘厳な神殿を建てました。その奉献式、その祈りがこの箇所です。ソロモンは「…あなたは、心を尽くして御前に歩むあなたのしもべたちに対し、契約と恵みを守られる方です」と主を讃えます。その契約とはアブラハ Continue Reading →
「知恵を求める」1列王記3:3-15
イスラエルの三代目の王、ダビデの子ソロモンの始まりです。王になった彼の夢に主が現れ、「あなたに何を与えようか。願え」と言うのです。ソロモンは民を治めるための判断力、知恵を求めました。それは主のみこころにかない、そればか Continue Reading →
「キリスト者のしるし」ヨハネ13:34-35
教会の歴史の中には様々なムーブメントの波がありました。これこそ真の教会のあり方だと言われたもの、流行廃りもありました。私たちはむしろ圧倒的な神の力の表れであるリバイバルを求めます。それが与えられるのは、何があっても、へ Continue Reading →
きよい手をあげて祈ろう
「男たちは怒ったり言い争ったりせずに、どこででも、きよい手を上げて祈りなさい。」(1テモテ2:8) 新年ほど誰もが祈るという言葉を使うことはないでしょう。キリスト者にとっての祈りの姿勢、生きる姿勢を問うのがこのみことば Continue Reading →
「古い人を脱ぎ捨て、思い新たに」コロサイ3:1-11
この箇所は、「御父は、私たちを暗闇の力から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。」(1:16)「このように、あなたがたは主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストにあって歩みなさい。」(2: Continue Reading →
「あなたはパラダイスにいます」ルカ23:26-49
クリスマス、主イエス様の御降誕を祝う時です。イエス様がこの世に来られた最も大切なことは、十字架と復活の救いです。そして、それが最もよく表れているのがこの箇所です。パラダイスとは「楽園」と訳されることばですが、聖書の中で Continue Reading →
「わたしがあなたがたにしたとおりに」ヨハネ13:1-17
洗足の出来事はよく知られています。過越の食事の場でイエス様が弟子たちの足を洗ってくださったのです。すでに食事の席に着くには足は洗っていたでしょうから、エス様が弟子たちへ愛を「残るところなく示された」のです。だからその模 Continue Reading →
「あなたの罪は赦された」マタイ9:1-8
四苦八苦ということばがあります。元来は仏教用語ですが、生老病死の四苦に加えて八苦、人生の苦しみを言い当てたことばです。中風の男が連れて来られました。イエス様は「あなたの罪は赦された」と言われ、心の中でつぶやく律法学者を Continue Reading →
「平和ならざるもの、赦せぬ心とさばき」マタイ7:1-5
平和ならざるもの、赦せぬ心とさばく心、この二つに共通するのは「自分は正しい!」という思いです。「あなたは正しすぎてはならない(伝7:16)」ということばがありますが、それは自分の正しさや知恵に頼り、過ちや愚かさを認めな Continue Reading →
「平和ならざるもの、欲」ヤコブ4:1-8
イスラエルで使われるあいさつは「シャローム」。平和を意味します。しかし、皮肉なことに今、戦争の舞台となっています。人は戦争を止める努力を重ねてきました。しかし、国際連盟は第二次大戦を止めることができず、今の国際連合も同 Continue Reading →
「最期に残るものは何ですか」1歴代誌29:10-20
「彼は幸せな晩年を過ごし、齢も富も誉れも満ち足りて死んだ。」これがダビデの生涯を総括することばです。私たちも地上の生涯を終えて天に帰る日がやってきます。その最期のときをどう生きるべきでしょうか。 ダビデは晩年、神殿建 Continue Reading →
「今日は何を着ますか」コロサイ3:12-14
世界で最初に服を着たのはアダムとエバです。彼らは自分たちの罪を隠すためにイチジクの葉を綴り合わせた腰の覆いを身にまといました。裸の私たちが恥ずかしいのは素の罪の姿が露わになるからです。神さまが着せてくださったのは皮の衣 Continue Reading →
「さばきと救いの場」1歴代誌21:1-22:13
ダビデの人口調査、それが罪とされ、イスラエルのうち7万人が打たれます。「サタンがイスラエルに向かって立ち上がり」は、平行箇所のIIサムエルでは「再び主の怒りがイスラエルに対して燃え上がり」とあります。それはダビデの罪と Continue Reading →
「主の御手に任せる」2サムエル15:1-31
ダビデは誰よりもイスラエルの王として主の祝福をいただく信仰の人でした。それが彼の表の顔ですが、影の部分があるのです。彼は王権が確立すると周辺諸国の王のように多くの妻と側女を召し入れます。それが諸王のステータスでした。し Continue Reading →
「自分の罪がわからない」第二サムエル12:1-14
信仰の勇者として歩み、名実ともに王となったダビデが大きな罪を犯しバテ・シャバを見初めて召し入れ寝るのです。しかも人妻である彼女が身ごもると、戦地にいる夫ウリヤを呼び、家に帰らせる隠蔽工作をします。それが失敗すると彼を最 Continue Reading →
「とこしえの王国」2サムエル7:1-29
アブラハムの選びと契約、それに求められたのは「割礼」というしるしでした。奴隷のエジプトから贖い出された民に与えられた契約、そのしるしは「律法」です。祭司の王国、聖なる国民としての選びに応えるものです。しかし、荒野の40 Continue Reading →
「神の箱、神の臨在」2サムエル6章
サウルが死に、ダビデが全イスラエルの王となってヘブロンからエルサレムに都を移すと、最初にしたことが神の箱を都に運び上るということでした。神の箱は出エジプトの民がシナイで作るように命じられた幕屋の中心に置かれた神の臨在を Continue Reading →
「上を向いて歩こう!」黙示録21:1-7
私たちの周りでは人生の終わりを迎える『終活』なる言葉が使われるようになりました。それは過去と今のことです。未来に自分はいません。しかし、キリスト者には天に迎えられる希望があります。主が迎えてくださるのは新天新地です。終 Continue Reading →
「人はうわべを見るが、主は心を見る」1サムエル16:1-13
サウルがみこころを損ない、王として斥けられた後、サムエルはエッサイの子に王として油注ぐように導かれます。サムエルも、エッサイの住むベツレヘムの人たちもサウルを差し置いてのことに恐れを覚えますが、いけにえを献げる祝宴にエ Continue Reading →
「主のみこころを求める」1サムエル24:1-22
巨人ゴリアテを倒してから、ダビデの快進撃が始まります。連戦連勝のダビデに女たちが「サウルは千を討ち、 ダビデは万を討った。」と歌い交わすのを聞くや、サウルの心は嫉妬に狂います。そして、手元にあった槍をダビデに投げつける Continue Reading →
「口先だけの信仰でいいのか」1サムエル15:1-31
イスラエル最初の王サウル、『あなたは、自分では小さい者にすぎないと思ってはいても、イスラエルの諸部族のかしらではありませんか。主があなたに油をそそぎ、イスラエルの王とされた』というサムエルのことばがキーワードです。とこ Continue Reading →
「王を求める心」1サムエル8:1-22
士師の時代、各部族から一人ずつ12人の士師たちがイスラエルを救いさばきます。イスラエルは、「主を捨てて、バアルや神々に仕える→主の怒りのゆえに、周辺の国々に攻められ苦しめられる→主があわれまれ、さばきつかさを起こして救 Continue Reading →
「右に左に逸れたにもかかわらず」士師2:6-23
「神のみことばから右にも左にも逸れてはならない。」それは、モーセを通して、ヨシュアを通して民に語られた主のご命令でした。ヨシュアとその世代の者たちは主に仕えますが、次の世代の者たちになるとそこから逸れるのです。神のみこ Continue Reading →
「強くあれ、雄々しくあれ」ヨシュア1:1-18
いよいよイスラエルは約束の地に入ろうとしています。それはアブラハムの召し、「地のすべての民族はあなたによって祝福される」という遠大な神のご計画です。なぜカナンでしょうか。ここは古代文明の交わる場所です。ユーフラテスから Continue Reading →
「進むのか戻るのか」民数記13:1-3, 17-14:12
エジプトでの奴隷から贖い出され、シナイで新しい契約をいただき、イスラエルの民は「祭司の王国、聖なる国民」として生きるべき備えがされて、今、乳と蜜の流れる約束の地へと進もうとしています。民数記の始めに民の数が数えられ、戦 Continue Reading →
「幕屋と礼拝」出エジプト25:1-9, レビ4:32-35
エジプトで奴隷であったところから贖い出されたイスラエルはシナイ契約を結びました。律法を守り行うなら、「私の宝、祭司の王国、聖なる国民となる」契約です。「私たちは主の言われたことをすべて行います」と言いはしますが、実際に Continue Reading →
「律法と契約」出エジプト20:1-20
奴隷であったエジプトから贖い出されたイスラエル、「鷲の翼に乗せて、私のもとに連れてきたこと」と主は言われます。そしてここで、私に聞き従い、契約を守るなら、「私の宝、祭司の王国、聖なる国民となる」と新たな契約を結ぼうとさ Continue Reading →
「契約と贖い」出エジプト2:23-25, 12:40-42
イスラエルの一族は飢饉のとき、不思議な神のお取り扱いを受けてエジプトに導かれました。そして、そのままエジプトに住み着いて多くの民となりました。エジプト人は彼らを恐れ、奴隷として苦役を課します。その嘆きは神に届いて、モー Continue Reading →
「アブラハム、イサク、ヤコブの信仰」創世記12:1-3, 27:27-29, 28:11-18
ノア以後の世界、虹の契約をもって再び始まった世界ですが、人はバベルの偶像を築きます。それはことばの混乱によって散らされました。一方、同じ原理が働いて罪に染まる世界の中にあって、神はセツの流れ、セムの流れに一筋の信仰に立 Continue Reading →
「権力と傲慢と散らされた世界」創世記10:1, 8-9,32, 11:1-9
大洪水の後、それはすべてがリセットされた新しい世界の始まりです。神は再び「生めよ。増えよ。地に満ちよ」と言われます。全焼のささげものをもって礼拝をささげるノアと一同に神は契約を結んでくださいます。それは再び大洪水によっ Continue Reading →
「罪の連鎖と神のみ思い」創世記6:5-8
カインとアベルから人に二つの流れが生まれます。信仰によって神に従う流れと神から離れる流れです。罪ある人に神は皮の衣を着せてくださいました。いのちの犠牲をして罪を覆い、神とともに生きる道です。カインのささげたものは地の作 Continue Reading →
「すべての始まり」創世記1:1, 1:26-27
創世記1-11章は、この世のすべての始まりを私たちに伝えています。その中でも1-3章は人の始まりと罪の始まりについて、つまり私たちのルーツについて教えています。 天地創造の7日間、「光よあれ」から始まって地が整えられ Continue Reading →
「愛によって働く信仰」ガラテヤ5:1-12
パウロの手紙には特徴があって、教理を教えた後に実際にどう生きるのか。私たちの生活に結びついた教えをします。キリスト者の生活は外面だけを変えようとするならば、再び、律法主義に陥ってしまいます。内側が造り変えられること、キ Continue Reading →
「奴隷から自由へ」ガラテヤ4:21-31
この箇所のテーマは「奴隷と自由」です。パウロはそれを説明するために比喩としてユダヤ人の父祖アブラハムの妻サラの女奴隷ハガルから生まれたイシュマエルの話をします。アブラハムは神様から祝福の約束をいただきますが、跡取りがい Continue Reading →
「伝道者パウロの心」ガラテヤ4:12-20
パウロは「あなたがたのために労したことが無駄になったのではないか」、「途方に暮れているのです」という思いを吐露しながら手紙を書き進めています。私も同労者たちの涙と落胆、祈りと忍耐を多く見てきました。人間的な言い方をすれ Continue Reading →
「どうして逆戻りするのか」ガラテヤ4:8-11
かつての古い私たちは「本来神ではない神々の奴隷でした。」しかし、恵みによって始まったはずの信仰生活が古い生き方に戻ってしまう。それはさながら放蕩息子の兄息子の言い分です。無条件で赦され受け入れられる。それはあまりにも虫 Continue Reading →
「アバ、父と呼ぶ幸い」ガラテヤ4:1-7
信仰によって神の子どもとされた。しかもそれは、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由人もなく、男と女もない。みな一つ。それは、罪に分断された世界を変える大きな神の救いのみわざです。それを「つまり、こういうことです」とパ Continue Reading →
「誰もが神のこども」ガラテヤ3:23-29
この箇所の中心は私たちが信仰によって神の子どもとされることです。しかし、それまでは律法の下に監視され、厳しい養育係のもとに閉じ込められていました。それはさながら巨人の星の星飛雄馬。厳しい父の果たせぬ夢を託されて野球に打 Continue Reading →
「確かな約束と後から来た律法」ガラテヤ3:15-22
この箇所のテーマは約束と律法です。十字架に贖いによる恵みの約束を信仰によっていただいた。ならば、御霊に導かれて喜んでそれにふさわしく生きようと願う。そこには愛と思いやりがあります。一方、律法を守ることは肉による努力の世 Continue Reading →
「十字架こそ救い」ガラテヤ3:9-14
「律法の書に書いてあるすべてのことを守り行わない者はみな、のろわれる」(10)というのは申命記27:26のことばです。一方それは、みおしえを守るなら祝福されると続きます。イスラエルの民がいよいよ約束の地カナンに入ろうとい Continue Reading →
「信仰によって生きる人こそ」ガラテヤ3:5-9
あぁ、愚かなガラテヤ人ということばから始まって、パウロは律法主義、行い主義、「してはならない、しなければならない」ではなく、ただ十字架のイエス様を見上げる信仰について教えてきました。それを彼らの父祖アブラハムを例に語り Continue Reading →
「あぁ、愚かな人よ」ガラテヤ3:1-6
パウロはここに、厳しいことばで問いかけをします。「あぁ、愚かなガラテヤ人」、英語では一様にfoolishと訳され、砕けて言うなら、「バカな、わからずや」です。『バカの壁』という本がベストセラーになりました。人は見たいも Continue Reading →
「神のご計画は人の思いを超えて」エレミヤ29:1-14
新しい年、いまだコロナが収まらずに迎えました。コロナはかたちは違いますが、バビロン捕囚によって散らされた民の姿は私たちと重なります。エルサレム陥落と神殿の破壊、捕囚と帰還の出来事は旧約聖書の中でも大きなボリュームを占め Continue Reading →
「すべてに優る愛に生きる」1コリント13:1-13
クリスマスは私たちの世界に神が『突入』された時です。マリヤもヨセフも、羊飼いも東方の博士も、すべてのことがかつて聞いたこともない初めてのこと。それを信仰をもって迎えました。今、あなたのところにイエス様が来られたら、お迎 Continue Reading →
「人生の向きを変えた!」ルカ19:1-10
ザアカイ、彼は取税人のかしらで金持ちでした。それは時代劇の悪代官と結託した商人たちの「そちも悪よなぁ」というセリフと重なります。取税人は『罪人』と同義語でした。ローマの後ろ盾のもとに、不正な税の取り立てをして私腹を肥や Continue Reading →
「赦される幸い」ヨハネ8:1-12
私たち人は、「ありがとう、ごめんなさい、赦します」という3つのことばがあったら、共に生きていくことができます。しかし心は「あたりまえ、そっちが悪い、赦せない」と正反対のことを思います。主の祈りの「私たちの負い目をお赦し Continue Reading →
「泉となる生ける水」ヨハネ4:3-26
イエス様はユダヤからガリラヤへ向かう途上、「サマリヤを通って行かなければならなかった」とあります。それは、この女に会うためです。神にとって「たまたま』はありません。時を導き、出会いを導き、みわざをなしてくださるのです。 Continue Reading →
「親子関係の原則」コロサイ3:20-21
「子どもたちよ。すべてのことについて両親に従いなさい」(20)という教え。少し先ですが、23節には「何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から行いなさい。」という教えられています。相手が何をしたしな Continue Reading →
「まっすぐ生きる」ヘブル12:1-14
信仰に生きること、それはいのちを与えたもう神の愛への応答です。そして、その競争は罪と戦い、罪を捨てること。そのためには信仰の創始者であり完成者であるイエスから目を離さないことを学びました。それに続いて考えたいのは「まっ Continue Reading →
「一年の感謝を数えよう」ローマ8:28-39
一年52週の歩みを間もなく閉じようとしています。「神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、 すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。」(28)のみことばを掲げ Continue Reading →
「救い主の誕生」ルカ2:1-20
赤ちゃんが生まれるということは大変なことです。生まれてくるまで10ヶ月の間、準備をして、期待をもって、ようやく生まれてきます。ところがイエス様のお生まれ、それはベツレヘムの家畜小屋、寝かされたのは飼い葉桶でした。これよ Continue Reading →
「救い主を迎える備え」ルカ1:57-80
「救い主を迎える備え」ルカ1:57-80 ルカの福音書を紐解いています。前々回は子どもが与えられるという御使いのお告げを聞いたザカリヤを中心に、前回はマリヤへの受胎告知のところを学びました。二人とも「いきなり」でした。 Continue Reading →
「戸惑いを越えて」ルカ1:26-56
マリヤへの受胎告知、それは「恵まれた方」「神から恵みを受けた」という御使いのことばでしたが、彼女には戸惑いです。ここに強調されているのは、「処女」ということばです。これより前も起こったこともなければ、これから後に起こっ Continue Reading →
「いきなりですか」ルカ1:5-24
私たちはことが突然起こってことが変わると思っていません。私たちがしたようにことが動き、しなければことは動かず、自分の頭でコントロールできる範囲で物事は起こると考えています。ゼカリヤ夫婦には子どもがなく、すでに年を取って Continue Reading →
「夫婦関係の原則」コロサイ3:18-19
キリストにあるいのちをいただいた者たちは古い人を脱ぎ捨て新しい人を着る、新しい人になるということを学んできました。ここからはその具体的な現れです。夫婦関係、親子関係、主従関係の3つの関係についての勧めのことばが続きます Continue Reading →
「ホンモノの勇気」1サムエル17:23-51
今日のテーマは「勇気」です。勇気というのは一言で言うと「正しいことを正しい、間違っていることを間違っていると言えること」です。そして、そのように行動することです。その反対言葉はなんでしょうか。それは臆病かもしれませんが Continue Reading →
「すべてをキリストの名において」コロサイ3:15-17
神様が私たちのこの世界をお造りになったときの創造の姿は「すべてがよかった」。そして裸であっても恥ずかしくない一つ心でともに生きる平和がありました。ところが私たちの周りには最も親しいはずの夫婦から世界大に至るまで平和なら Continue Reading →
「赦しと愛を」コロサイ3:12-14
「神に選ばれた者、聖なる者、愛されている者」、これはキリスト者の自己理解、私は何者であるのかをまとめた大切なことばです。とても選ばれるにふさわしい器ではないのにもかかわらず、神は選んでくださった。そして、聖なる者と呼ん Continue Reading →
「捨て去るべきもの」コロサイ3:1-11
上にあるものを求め、思うことを教えたパウロは続いて、捨てるべきものを教えました。その第一は「欲」です。アントニウスは人が抑えがたい8つの誘惑というものを遺しました。食欲、性欲、貪欲、不満足、怒り、落胆、虚栄心、プライド Continue Reading →
「上にあるものを求めよ」コロサイ3:1-4
十字架の赦しとよみがえりのいのちをいただいた。「こういうわけで」新しくされた人の生き方についてパウロは語ります。3節に「あなたがたはすでに死んでいて」という「古い人」と、「あなたがたはキリストともによみがえらされたのな Continue Reading →
「かしらに結びつく」コロサイ2:16-23
ここには「こういうわけですから」ということばがでてきます。このような論理の展開をする接続詞は大切です。これからの話の前提があるからです。私たちは、罪の赦しを受け、よみがえりのいのちにあずかって新しいいのちをいただいた。 Continue Reading →
「勝利の凱旋」コロサイ2:10-15
この箇所は少々難しい用語が続いていますが、コロサイ書の核心をなす部分です。先に、「キリストに満たされている」と語ったパウロは、キリストが何をしてくださったのかを教えているのです。 「背きと肉の割礼がなく死んだ者であっ Continue Reading →
「キリストにあって満たされる」コロサイ2:6-12
キリストこそ知恵と知識の宝のすべて。それがゆえに「キリストに根ざし、建てられ、堅くし、感謝するように」とパウロは教え勧めました。続けてパウロは「あなたがたは、キリストにあって満たされているのです。」(10)と言います。 Continue Reading →
「遺言、遺していくべきもの」第一列王2:1-10
信仰の人ダビデが最期、死期が近づいたときに息子ソロモンに語った遺言、遺すべきことばがこの箇所です。一介の羊飼いの少年であったダビデがイスラエルの敵であったペリシテ人、その巨人ゴリアテを倒すところから始まります。時の王に Continue Reading →
「交わりを止めるな!」ヘブル10:19-25
コロナ禍が始まって以来、私たちは物理的な距離を取って、ウィルスの感染からは守られてきたものの、互いの心理的距離や神様との距離まで開いてきたかもしれません。ヘブル人への手紙は、迫害や困難の中、距離が開きはじめていた交わり Continue Reading →
「だまされるな!」コロサイ2:1-8
パウロは2節にあるように、「この人たちが愛のうちに結び合わされて心に励ましを受け」る歩みをしていくこと、それこそ、パウロが苦闘していることですが、その妨げになっているものが入ってくる。その中でどのようにキリストにある素 Continue Reading →
「奥義であるキリスト」コロサイ1:24-29
パウロは「 今、私は、あなたがたのために受ける苦しみを喜びとしています。」(24)と言います。それは、福音を伝え,教会に仕えるために受けている苦しみです。私たちは、ことがスラスラ、うまく行っているとき、恵みに感謝し、新 Continue Reading →
「土台を確かめよう」コロサイ1:21-23
神は、21節にある「あなたがたも、かつては神から離れ、敵意を抱き、悪い行いの中にありましたが」という世界に「和解」を与えてくださいました。 第一に、22節の前半は、和解の手段です。「今は、神が御子の肉のからだにおいて Continue Reading →
「教会のかしらキリスト」コロサイ1:15-20
15節から20節の御子の詩の後半、キーワードは教会、十字架の血、平和、和解です。前半の神のかたちとしての御子、創造から救いへと至る「間」が先の21節にある、「神から離れ、敵意を抱き…」という罪の結末の世界です。 罪に Continue Reading →
「御子キリストのbeing」コロサイ1:15-17
パウロはキリスト者のアイデンティティー、その存在について語った後、私たちの贖い主である御子とはどのようなお方なのか、その告白を語ります。イエスは「主は救い」を指す固有名詞、キリストは救い主、油注がれた者、メシヤを指す称 Continue Reading →
「暗闇からキリストへ」コロサイ1:13-14
ここはキリスト者のアイデンティティー、私たちがどんな者たちなのか、それを非常に短いことばで言い表したところです。あなたは誰ですか。私は誰ですか。その問いかけはとっても大切な問いかけです。生きる土台がそこにあるからです。 Continue Reading →
「あなたの祈り願いは」コロサイ1:9-12
あなたは何を祈り願っていますか。別のことばで言えば、何を第一にしているでしょうか。主はマルタに問いかけたように、「あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一 Continue Reading →
「福音を本当に理解するとき」コロサイ1:6-9
コロナの第5波の中、オリンピックが開催されようとしています。あるはずのワクチンがどこかで滞留している。感染を食い止めるには若者から打った方が早い、高齢者からということは死者を減らすためでしょう。しかし、政府の発表はおぼ Continue Reading →
「信仰と愛を与える神」コロサイ1:1-5
神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。(ローマ8:28)。今年はこのみことばを掲げて、ヨセフ物語とピレモン書を読んで Continue Reading →
「よろしく!に込めた思い」ピレモン21-25
この箇所は手紙の最後のあいさつ文です。 パウロは、「私の宿も用意しておいてください。あなたがたの祈りによって、私はあなたがたのもとに行くことが許されると期待しているからです」と言います。パウロにはイスパニアへ宣教する Continue Reading →
「心の目が見える」エペソ1:17-19
ここで使徒パウロが切に願う祈りがあります。愛する教会のキリスト者が神様から得ることができることを願う3つのことです。 1つ目は、17節「知恵と啓示の御霊」が与えられる様にということです。聖霊に与えられる神様の知恵と啓 Continue Reading →
「償いを共に負う」ピレモン17-21
パウロは、ピレモンのことを「彼は私の心そのものです」(12)また、「私を迎えるようにオネシモを迎えてください。」(17)と言います。それはパウロにも自分と重なる姿を見ているからでしょう。オネシモはピレモンに負債を負った Continue Reading →
「強いられてではなく、自発的に」ピレモン8-16
パウロはピレモンを深く信頼しています。それはこれまで、「聖徒たちが安心を得た」、多くの愛の奉仕をしてきたということです。そのようなたあなただから、今、なすべきこととして「命じることもできるのですが」、「むしろ愛のゆえに Continue Reading →
「信仰の交わりが生き生きする」ピレモン1-7
この手紙を一言で紹介するなら、次のようになります。コロサイの教会、ピレモンの奴隷であったオネシモが逃亡し、しかも、持ち逃げをしたのでしょうか、損害をかけていました。そのオネシモがパウロの元で救われたのです。パウロはオネ Continue Reading →
「恐れはもういらない」創世記50章
ヤコブの死と葬り、それは国葬級の葬儀でした。ヨセフがこのエジプトでトップに立っていたとはいえ、彼がどれほどの敬意を受けていたのかを表すものでした。カナンへの埋葬はヤコブの遺言でしたが、それは、神の約束の民がエジプトへ埋 Continue Reading →
「主が御霊によって加えてくださる」使徒2:1-4, 43-47
ペンテコステは、目に見えない聖霊なる神が見える形で働かれた「しるし」です。その聖霊は何を導き、どのようにして救いを導かれるでしょうか。 「罪を罪と感じ得ないことが、最大の罪なのだと知った。」とは、三浦綾子さんの言葉で Continue Reading →
「己の分を生きる」創世記49章
ヤコブの最期です。すでにヨセフの二人の息子マナセとエフライムを祝福したヤコブは12人の息子たちを呼び寄せて、一人一人にある者には祝福を、ある者には叱責をあるいは戒めを語ります。それは彼らのこれまで、それを踏まえてこれか Continue Reading →
「母はあきらめない」2列王記4:8-37
母の日のエピソードを読むと、共通するのは、母への「甘え」です。母という存在はどこかで甘えを許してくれる。それは、どんなことがあったとしても受け入れてくれる唯一の存在だからなのでしょう。子どもは作るものでもできるものでも Continue Reading →
「後もなく先もなく」創世記48章
ヤコブに最期の時が近づいていました。ヨセフは二人の息子たちを連れていきます。ヤコブは「力を振り絞って床の上に座」(2)りました。そして、最愛の息子であるヨセフに特別の祝福、遺言を残そうとするのです。そこで注目するべきこ Continue Reading →
「受くる幸い、与える幸い」創世記47:1-28
エジプトでファラオの前に立つヤコブはファラオを祝福しました。飢饉による疎開です。世話にならざるを得ないみじめなことですが、ヤコブがファラオを祝福したのです。どういうことでしょうか。 ヤコブにとって祝福、幸せというもの Continue Reading →
「神の約束は違わず」創世記46:1-7,26-34
ヤコブはエジプトへ彼に属するものすべてと一緒に旅立ち、ベエル・シェバでいけにえをささげます。いけにえ、それはささげ物、祭壇と呼ばれても出てきますが、その最初はノアが箱船から出てきたときです。そして、アブラハムがカナンで Continue Reading →
「過去との決別」創世記45:16-28
世界がどう動こうとも、私たちが心揺さぶられるのは「私ゴト」です。誰もあえて試みを通ろうとは思っていません。面白しろおかしくなくたっていい、すべてがスラスラと進まなくたっていい。穏やかな日々を過ごしたいと願うのがせめての Continue Reading →
「復活の意味」ルカ24:13-53
復活の朝は墓に向かう女たちから始まります。空の墓と主の使いのお告げに驚きます。続いてそれを聞いて墓に走ったペテロともう一人の弟子。彼らも同様です。そしてエマオに向かう二人の弟子たちも戸惑っていました。誰一人として復活な Continue Reading →
「私を思い出してください」ルカ23:26-49
受難週を迎えました。イエス様のエルサレム入城、人々は「ホサナ、ホサナ」と喜び迎えました。それは、イスラエルをローマの圧政から救う期待でした。一方、イエスの与える救いは罪からの贖いです。 私たちは自分でもわからぬほどに Continue Reading →
「和解の時、神のご計画」創世記45:1-15
いよいよ、ヨセフ物語のクライマックス、ヨセフが兄弟に自らを明かして和解に導かれる場面です。ヨセフと兄弟たち、そしてヤコブが口にしたことばをキーワードにこのストーリーを読み進めてきました。「私も神を恐れる者だから」(42 Continue Reading →
「問われ続けた罪と向き合う」創世記44章
ベニヤミンを連れて出なければ、エジプトには行けない兄弟たち、ヤコブは全能の神のあわれみに委ねて息子たちを送り出します。エジプトでヨセフはもう一芝居打って兄弟たちを送り返します。ベニヤミンに盗みの嫌疑をかけるのです。そし Continue Reading →
「全能の神に委ね進む」創世記43章
エジプトから買ってきた穀物を食べ尽くしたヤコブの家族、いよいよもう一度、エジプトに行かなければならなくなりました。そこでヤコブが口にしたのが次のことばです。「全能の神が、その方の前でおまえたちをあわれんでくださるように Continue Reading →
「苦しみが癒えるまでには」創世記42章
エジプトでのヨセフは、マナセとエフライム、二人の子どもたちの名前に表れる祝福をいただきます。しかし、過去とは決別、きれいさっぱりになったということにはなりません。神の私たちに対する御思いは、エペソ5章にあるように、「し Continue Reading →
「すべては神のなさること」創世記41章
献酌官が恩を忘れて二年、ようやくヨセフが顧みられるとき、神の時がやってきます。ファラオが夢を見るのです。心が騒ぐファラオですが、誰も夢を解き明かすことができません。ときに献酌官がヨセフのことを思い出すのです。ヨセフは夢 Continue Reading →
「人は忘れても、神は覚えておられる」創世記40章
主がヨセフとともにおられたので、ポティファルの家でも、濡れ衣を着せられて入れられた監獄でも、彼は一生懸命仕えます。それでも監獄に自由はありません。いつの日にかここから出される日を待ちながら忍耐をもって日々を過ごしていた Continue Reading →
「不幸を嘆かない秘訣」創世記39章
エジプトに連れて行かれたヨセフはファラオの廷臣で侍従長のポティファルに買い取られます。彼の歩みのキーワードは、「主がヨセフとともにおられたので」(2)ということばです。後に監獄に入れられたところでも同じように書かれてい Continue Reading →
「恐れに縛られた不自由」創世記38章
この章は暗い話が続きます。「そのころのことであった」というのは、このヨセフを売り飛ばして父を欺いたときです。ヨセフを売ろうと言い出したのは「ユダ」です。兄弟はなじり合い、責任を押し付け合い、亀裂を生んだことでしょう。ト Continue Reading →
「復活の驚き」マルコ16:1-8
私たち人間にとって死というものは、避けることができません。「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」(ヘブル9:27)とあるように否応がなしにやってきます。私たちは復活という救いを知って Continue Reading →
「葬りという悲しみ」マルコ15:42-47
主イエスの葬り、ユダヤの一日は日没に始まります。翌日の安息日がすぐに迫り、亡くなったイエスの遺体を埋葬するには限られた時間しかありませんでした。アリマタヤのヨセフ、彼は有力な議員でした。ですからユダヤ人の手前、勇気ある Continue Reading →
「イエスの死、その時」マルコ15:33-41
「イエスの死、その時」マルコ15:33-41 マルコの福音書を読み進めてきて、いよいよイエスの死の場面です。十字架に架けられると人々はイエスを罵りました。そして、「十二時になったとき、闇が全地をおおい、午後三時まで続」 Continue Reading →
「十字架のみ苦しみ」マルコ15:16-32
「十字架のみ苦しみ」マルコ15:16-32 この箇所は十字架へと送られたイエス様の受けられたみ苦しみの箇所です。ここに出てくる人たちに私たちの姿を重ねて、みことばの迫りを聞きたいと思います。 兵士たちはイエスをからか Continue Reading →
「主とともに平和を生きる」1テサロニケ5:10-24
「主とともに平和を生きる」1テサロニケ5:10-24 8月は平和を覚えて祈る月です。戦後75年、生き証人が絶えようとしています。そこをくぐり抜けてきた人たちはその悲惨さを身に染みていますが、それが絶えたとき、同じ過ちを Continue Reading →
「あなたの王は誰か」マルコ15:1-15
「あなたの王は誰か」マルコ15:1-15 祭司長たちは夜が明けるとすぐにイエスをピラトのもとに連れ出します。ピラトが尋ねた問いは「あなたはユダヤ人の王なのか」でした。もし、そうならば、ローマに対する反逆罪です。イエスは Continue Reading →
「どれだけ頑張っても」マルコ14:66-72
「どれだけ頑張っても」マルコ14:66-72 イエス様の逮捕、その場でつまづいた弟子たちの姿は、表裏ある人の姿、暴力に訴える人の姿、困難に向き合えず逃避する人の姿でした。そして、イエス様の裁判、そこでは偽善を暴かた者た Continue Reading →
「裁かれて明るみに出たのは?」マルコ14:53-65
「裁かれて明るみに出たのは?」マルコ14:53-65 イエス様の逮捕劇、そこでスポットが当たっていたのは弟子たちの姿でした。この箇所では対極にある祭司長、律法学者、長老たちです。そこで、裁かれて明るみに出たのはむしろ彼 Continue Reading →
「イエスの逮捕」マルコ14:43-52
「イエスの逮捕」マルコ14:43-52 この逮捕劇、イエス様の態度は毅然としています。何のためらいも、戸惑いも、ブレの一つもありません。それは、すでにゲッセマネの祈りで勝利をなさったからです。一方、弟子たちにとっては「 Continue Reading →
「自分を捨てる闘い」マルコ14:32-42
「自分を捨てる闘い」マルコ14:32-42 ゲッセマネの祈り。イエス様が十字架へと向かう最大のヤマ場であり、最大の闘いの場です。この先、イエス様には、一つの迷いもぶれもありません。それは、このゲッセマネの祈りでの闘い、 Continue Reading →
「私の決意、主のあわれみ」マルコ14:27-31
「私の決意、主のあわれみ」マルコ14:27-31 「つまづき」ということばは、私たちもときに使います。私たちは互いに人につまづき人をつまづかせたりします。しかしここでは、父なる神が羊飼いであるイエスを打ち、羊である弟子 Continue Reading →
「わたしのからだ、わたしの血」マルコ14:22-26
「わたしのからだ、わたしの血」マルコ14:22-26 過越の食事、最後の晩餐と呼ばれるその場でイエス様は聖餐を定めてくださいました。その意味を弟子たちは理解したでしょうか。それがわかったのは、十字架とよみがえりの後です Continue Reading →
内なる差別の心
米ミネソタ州ミネアポリス市で先月、黒人のジョージ・フロイドさんが白人警官に暴行され死亡した事件が波紋を広げています。その後、全米であるいは世界中へ抗議デモが拡がり、あるいは暴動や略奪などということが拡がっています。 Continue Reading →
「裏切りの心、その痛み」マルコ14:10-21
私たちにとって、裏切りほどつらいことはありません。主イエスは「人の子を裏切るその人はわざわいです。そういう人は、生まれて来なければよかったのです。」(21)と言います。一方、直前にはナルドの香油を注いだ女の出来事。こち Continue Reading →
「自分にできることを喜んで」マルコ14:1-9
マルコの福音書は14章からいよいよ十字架に向かっていきます。「過越の祭り、すなわち種なしパンの祭りが二日後に迫っていた」とあります。それはエジプトで奴隷であったイスラエルの民を主が救い出してくださったことを記念する祭り Continue Reading →
「聖霊を受けていますか」使徒の働き19:1-7
ペンテコステ、それは聖霊がお下りになった日です。エペソの教会、それはパウロが3年半の間教え導いた教会です。その初め、第一声とでも言うべき言葉が「信じたとき、聖霊を受けましたか」でした。ところが彼らが答えたのは、「いいえ Continue Reading →
「目を覚ましていなさい」マルコ13:32-37
「目を覚ましていなさい」という言葉と反対に、私たちは目を覚ましていられないときがあります。まずそれは、私たちが疲れているときです。第二は退屈なとき、第三は誰も見ていないときです。緊張が保てません。いのちの目標を見失うと Continue Reading →
「消え去ることのないことば」マルコ13:28-31
「心は言葉にしなければ伝わらない。言葉は行動によって証明しなければ意味がない」そういうものです。神はその熱い思いを預言者を通して語ってきました。そしてその言葉通りに真実尽くしてくださいます。「天地は消え去ります。しかし Continue Reading →
「心の大掃除」マルコ11:12-21
ベタニヤを出てエルサレムに向かうイエスはいちじくの木をご覧になりますが、実がありませんでした。時期ではなかったからです。それにもかかわらず、イエスはそれを呪います。何故でしょうか。それは、この出来事と前後する宮きよめと Continue Reading →
「王を迎える」マルコ11:1-11
いよいよ、イエスはエルサレムに入城します。ホサナとは「どうか救ってください」という意味です。人々の期待はダビデの国の再興です。一方で、イエスは「神の国の王」として都に入られたのです。 世の王たちの姿、それは旧約聖書に Continue Reading →
「あなたの信仰が」マルコ10:46-52
この時代の盲人、それは働くこともできず、物乞いをするしか生きる術がありませんでした。エリコは過越の祭を前にエルサレムに向かう巡礼の旅の最後の宿場になったところです。そこから出たところ、一番人通りの多い場所にいた彼は、イ Continue Reading →
「仕えること、与えること」マルコ10:32-45
マルコの福音書は9章の変貌山の出来事、神の栄光を垣間見ることを境に受難、十字架へと向かいます。10章のはじめには神の国に入る条件、子どものように恵みを受けること、そして、目に見える頼りを捨てて従う者に与えられる祝福を学 Continue Reading →
「みからだをわきまえて」1コリント11:17-34
キリストのからだとして共に生きることを常に確認し、常に思い起こすために主は私たちに聖餐を定めてくださいました。 聖餐、それはキリストのからだと血に「あずかる」ことです。「あずかる」とはコイノニアということばが使われて Continue Reading →
「キリストのからだ」1コリント12:12-27
今年、このみことばを掲げてともに歩みしたいと願っています。昨年はクリスチャンセンター解体と会堂の一部リフォームという節目で、教会の歴史65年、若者中心の教会が三世代、四世代同居する教会になりました。赤ちゃんから高齢者ま Continue Reading →
「主にあって精算する」ピレモン
一年の最後に胸のつかえのあることはありませんか。気がかりなことがありませんか。やっておかなければならないと思いつつもできないでいることはありませんか。それをしなければ、生きてはいけないというものではないかもしれない。で Continue Reading →
「きぼうのひかり」ヨハネ1:1-12
「きぼうのひかり」と今日のテーマをつけました。同じテーマの歌がいくつもあります。人は希望を求め、光を見いだそうとします。それがないと生きていけなきからです。しかし、そこに確かな揺るがない希望があるのかというと、心許ない Continue Reading →
「すべてはこの時のため」創世記45:1-15
私たちはイソップ童話の「アリとキリギリス」のように、努力を美徳とする世界に生きています。一方で、残念ながら努力が報われないこともままあり、頑張り過ぎて心と体を壊してしまうこともあります。そのギリギリの淵に立っている人も Continue Reading →
「ひとりぼっちじゃないよ」創世記28:10-22
私たちが人として感じる寂しさや悲しみ、孤独感。しばしば、私たちにはそのような時があります。あるいは、これから起こるかもしれません。心にしっかりと刻んでおきたいみことばが、この箇所、ヤコブに語られたことばです。「わたしは、 Continue Reading →
「ひとつ心でともに生きる」ピリピ2:1-14
「天国と地獄」という話、それは、長~いスプーンとフォークを持つ二つの食卓。自分のことだけ考えてぶつかり争う世界か、互いに仕えて皆が喜ぶ世界か、そこに生まれるものは全く違うものです。一方、そんなよい話を聞いても、そう生き Continue Reading →
「わたしがあなたを遣わす」士師6:1-32
ギデオンが主によって立てられたとき、イスラエルはミディアン人に荒らされていました。山々にある洞窟や洞穴、要害に身を避け、糧も羊も牛もろばも奪われる状況の中、イスラエルは主に叫び求めます。すると主は預言者を遣わして、この Continue Reading →
「すべてを捨てて従う」マルコ10:23-31
「子たちよ。神の国に入ることは、なんと難しいことでしょう。金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうが易しいのです」というイエスのことばに、ペテロは「私たちはすべてを捨てて、あなたに従って来ました」と言います Continue Reading →
「一番大切なもの、愛」1コリント13:1-8, 13
今日は子どもたちの成長を感謝し、その祝福を祈る日です。その生涯、一番大切なものは何なのでしょう。聖書は「愛」だと教えます。私たちのこのいのちですら、やがては消えていきます。「いつまでも残るもの、永遠に価値あるもの」、そ Continue Reading →
「神の国に入るには」マルコ10:17-27
私たちは、過去と未来という時間の流れの中で今を生きています。残念なことに過去を覚えては後悔し、未来に希望を見いだせずに今に意味を見いだせない。そんなことが少なくありません。「永遠のいのち」とは、やがて来るものではなく今 Continue Reading →
「人を自立に導くもの」ヨハネ5:1-9a
三浦綾子さんが『道ありき』の中で「本当に人を愛するとは、その人が一人でいても生きていけるようにしてあげることだ。」と書いておられます。イエス様はここで一人の人を自立に導かれました。 彼は、「38年も病気にかかっている Continue Reading →
「ルツに与えられた信仰」ルツ1:15-18
自分にすがりつくルツに向かって、ナオミは「モアブとその神々の帰りなさい」と命じます。この命令は、ルツがまことの神と神を信じる共同体に生きていくことを問うものでした。ナオミを通して、神がルツの信仰を確認しているとも言えま Continue Reading →
「子どものように」マルコ10:13-16
マルコ10章、そこには3つの話が連続して書かれています。福音書の記者はイエスのなさったみわざ、教えられた教えの中から取捨選択して記録しました。込められた文脈の意図があります。離縁の話、この子どもたちの話、続く金持ちの青 Continue Reading →
「結婚、いいか悪いかを超えて」マルコ10:1-12
パリサイ人たちがイエスを試みて、夫が妻を離縁することは律法にかなっているかどうかと尋ねます。イエスは、人の心の頑なさのゆえにやむを得ず離婚状を書いて離婚することを許したのであって、本来そうではないとお教えになりました。 Continue Reading →
「イエスの愛の極み」ヨハネ13:1-20
イエスが、弟子たちを最後まで愛されました。その愛を示すため、イエスは、弟子たちの足を洗われました。 4節の「上着を脱」ぐという言葉は、ギリシャ語「ティセーミ」です。ヨハネの福音書10章に、「わたしは良い牧者です。良い Continue Reading →
「私たちの信仰と愛が用いられる」ルツ1:6-14
「お役に立ちたい」と願いつつ、何もできない事が多々あります。試練にお襲われれば、「私なんか、神さまや他者に対しても何もできない」とガッカリしてしまうことがあります。しかし、そんな私たちをも神が用いてくださいます。 Continue Reading →
「祝福の器として」創世記47:1-12
私たちは裸で生まれ、裸で死んで行きます。どの時代に、どこに、どの親から生まれるか選ぶこともできません。そして、「私たちの齢は七十年。 健やかであっても八十年。しかも、そのほとんどは 労苦とわざわいです。」と詩篇は語りま Continue Reading →
「神の国に入るために」マルコ9:42-50
今日の箇所も、「誰が一番偉いのか」から始まる、私たちが人との交わりの中にどう生きるのかを教えるところです。その原理は、「だれでも先頭に立ちたいと思う者は、皆の後になり、皆に仕える者になりなさい。」そのように徹底して仕え Continue Reading →
「キリストの名を生きる」マルコ9:38-41
弟子たちの「誰が一番偉いのか」から始まるイエスの教え、それは人と人との交わり、イエスの弟子として生きる原則です。この箇所では、私たちの仲間でない者がいやしをしている。それに関わることが中心です。いったいイエスは何を問うて Continue Reading →
「一番偉いのは誰か」マルコ9:30-37
イエスの一行はピリポ・カイザリヤの地方から、ガリラヤを通ります。これからエルサレム、十字架への道を進んでいきます。イエスが自分を捨てようとするその中で弟子たちは、だれが一番偉いかを論じあっていたのです。 人はみな一番 Continue Reading →
「祈りによらなければ」マルコ9:14-29
変貌山でのイエスの輝かしい栄光のお姿とは裏腹に、山を降るとそこでは、口をきけなくする霊につかれた息子をいやすことができない弟子たちの姿がありました。これまでもいやしの記事は多くありましたが、ここでは弟子たちがどうしてで Continue Reading →
「平和のレシピ」第二列王6:8-23
恐れと不安は人を不自由にします。自らを守るために食べ物や物資、知識を蓄え、一方で周りから身を守るために武装します。そんな世の中で、私たちはどのようにして平和をつくることができるでしょうか。 アラムはイスラエルの宿敵で Continue Reading →
「拒み続ける人、救いの神」マルコ9:9-13
イエスは輝かしい栄光のお姿を見た弟子たちに口止めをされました。それは、「人の子が死人の中からよみがえる時まで」です。それはイエスが十字架とよみがえりという使命を全うしなければ、この出来事の意味を理解できないからです。 Continue Reading →
「栄光を見る」マルコ9:1-8
私たちが生きるところには「目に見える世界」と「目に見えない世界」があります。ペテロは「あなたはキリストです」という告白をしますが、見えていたのは「目に見える世界」です。彼を含めて弟子たちが描いていたキリスト像は、イス Continue Reading →
「十字架の主に従う」マルコ8:31-38
この箇所を機に、イエスは受難と復活を弟子たちに教え始められました。受難と復活は「なければならない」、英語で言えばmastです。それこそがイエスの使命だからです。キリスト教の誤解の一つは、キリストの教えや精神を学び生かす Continue Reading →
「わたしは誰かという問い」マルコ8:27-30
7つのパンで4千人を養われた奇蹟の後、イエスは弟子たちに「まだ悟らないのか」と問いかけられました。そして、ここでは、「私は誰か」という問いかけをします。この2つの問いかけが、この福音書の中心的な大切なことを言い表してい Continue Reading →
「すべてのものがはっきりと」マルコ8:22-26
マルコ8章はこの福音書の折り返し地点です。「まだ悟らないのか」と問いかけ、「私は誰か」という問いと前後しながら、一対のいやしの出来事が記録されています。それが、目の見えない人の目が開けられるいやしであり、7章の終わりに Continue Reading →
「暗やみの中でも」ルツ1:1-6
人生には、苦しみが付きものです。また、自分の心を見つめれば、醜い罪や神への不信仰を見出します。社会の動向を見ても不安要素が溢れています。この暗闇の世にあって、私たちの生きる希望や喜びをどこにあるのでしょうか。答えは、神 Continue Reading →
「回復の日」マラキ4:1-6
私たちにとって、「父」の最大モデルは自分の父親です。無意識にそれは刷り込まれています。私たちは自分が受けたようにします。よいものを受けた人もいれば、悪いものを受けた人もいます。パーフェクトな父親などどこにもいません。そ Continue Reading →
「生ける水の川」ヨハネ7:37〜39
この教えがなされたのは祭り、仮庵の祭りの日です。この日は出エジプトの後、荒野での放浪の日々の恵みを思い返しつつ、仮小屋で過ごしながら、永遠の安息の日を待ち望むのです。エゼキエル書のはその日、神殿の敷居から水が流れ出し、 Continue Reading →
「まだ悟らないのか」マルコ8:1-21
7つのパンで4千人が養われた奇蹟は、6章の5つのパンで5千人が養われた奇蹟と並行しています。違うのは一方がユダヤ人の間で行われ、もう一方が異邦人の間で行われたことです。それぞれ12のかご、7つのかごに余ったのは、ユダヤ Continue Reading →
「イエスはすばらしい」マルコ7:31-37
ツロからシドン、デカポリス地方を通り抜けてガリラヤ湖へ来たイエスのもとに、「耳が聞こえず口のきけない人」が連れて来られました。イエスは「ご自分の指を彼の両耳に入れ、それから唾を付けてその舌にさわられ」、天を見上げ(祈り Continue Reading →
「天地創造の神」創世記1:1-2:3
聖書は開口一番、はじめに神が天と地を創造したから始まります。「父よ、今、あなたご自身が御前でわたしの栄光を現してください。世界が始まる前に一緒に持っていたあの栄光を」(ヨハネ17:5)という祈りがあります。はじめにの前 Continue Reading →
「食卓の下の子犬でも」マルコ7:24-30
舞台はツロの地方、異邦人の町です。休む間もないイエス様一行はそこでしばしの休みをとろうとされたのでしょう。そこに、「ある女の人が、すぐにイエスのことを聞き、やって来てその足もとにひれ伏した。」「すぐに」です。イエスの評 Continue Reading →
「人を汚すもの、それは内側から」マルコ7:14-23
汚れときよめについて、イエスはパリサイ人、律法学者たちの形ばかりの偽善について糾弾しました。彼らは自分たちこそきよいという誇りのために周りを見下し、心頑なです。一方でイエスは群衆を呼び寄せて語ります。「聞いて、悟るよう Continue Reading →
「ハリボテの偽善」マルコ7:1-13
人の定めるルールは相対的です。ある時代に正しいことが、必ずしも今に当てはまるわけではありません。神の戒め。それを人はどのように受けとってきたでしょうか。 ガリラヤのイエスのもとにエルサレムからパリサイ人たちと律法学者 Continue Reading →
「喜びの挨拶」マタイ28:1-10
安息日が終わって週の初めの日の明け方、マグダラのマリアともう一人のマリアが墓を見に行きました。ゲッセマネの祈りの後からイエスの逮捕、裁判、十字架。女たちの心にも、弟子たちに心もみな暗やみが立ちこめたままです。女たちは朝 Continue Reading →
「父よ、彼らをお赦しください」ルカ23:32-43
受難週を迎えました。イエス様のエルサレム入城、人々は「ホサナ、ホサナ」と喜び迎えました。それは、イスラエルをローマの圧政から救う期待でした。一方、イエスの与える救いは罪からの贖いです。「父よ、彼らをお赦しください。彼ら Continue Reading →
「逆風吹く中で」マルコ6:45-56
この箇所は、イエスが湖の上を歩いて向かい風に舟を漕ぎあぐねている弟子たちのところに行かれるという奇蹟です。ここには、いったいどんな意味があったのでしょうか。 イエスは弟子たちを「無理やり」舟に乗り込ませて送り出したと Continue Reading →
「五つのパンと二匹の魚」マルコ6:30-45
五つのパンと二匹の魚の奇蹟、続々と集まっている大群衆、そこにイエスさまが教えをしている間に遅い時刻になったという話です。群衆はそれこそ食べることや時間なんて忘れてしまうほど、イエスさまの教えを聞きたいと人々はここに集ま Continue Reading →
「神のことばは殺せず」マルコ6:14-29
新約聖書にはヘロデが何人か登場します。ここに出てくるのはヘロデ・アンティパス。ガリラヤとペレヤの国主でした。彼は異母兄弟ピリポの妻へロディアを奪って妻としていました。ヨハネはそれを非難しました。 その声を聞いて、彼は Continue Reading →
「私たちの使命」マタイ28:16-2
今日は、N神学生を送り出します。一年間のよき交わりに感謝しつつ、主にある働き人とともに教会に委ねられている使命を、このみことばに聞きましょう。 まず第一に、よみがえりのイエスさまにガリラヤの山でお会いしたときに、彼ら Continue Reading →
「弟子を遣わす」マルコ6:6b-13
イエスは12人を遣わします。それは、旧約の12部族に与えられた世界を祝福するというご計画の延長にあります。民族としてのイスラエルを超えて、信仰によるイスラエル、神の国の民を新たに立てようとなさった。そのさきがけがこの1 Continue Reading →
「ホンモノが試される時」マルコ6:1-6
イエスが故郷のナザレの会堂で教え始めると人々はつまづきます。そのことばと権威に驚くのです。「この人は大工ではないか。マリアの子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄ではないか。その妹たちも、ここで私たちと一緒にいるではない Continue Reading →
「死は終わりではない」マタイ5:21-24、35-43
会堂司のヤイロ、その務めは町の顔役であり、社会的にも地位のある人でした。娘が病で死にかかっている。そうまでなるまでに、できることならどんなことでもしたことでしょう。しかし、なすすべがないのです。彼は、いままでイエスのな Continue Reading →
「触れさえすれば」マルコ5:21-34
イエスが再び舟で向こう岸に戻ると、すぐに大勢の群衆に囲まれました。会堂司ヤイロが娘のいやしを願い、そこへ向かう途上での出来事です。長血の女がイエスの衣のすそに触り、いやされました。古代の世界で恐れられ、避けられた病は皮 Continue Reading →
「自分ではどうにもならないことを」マルコ5:1-20
4章で読んだ「嵐」は外から襲いかけるものですが、ここに出てくる男は自分の内側に住み着く悪霊に支配されていた人です。極端なことのように思いますが、私たちにも遠い出来事ではありません。どうにもならなく、自傷行為をする若者は Continue Reading →
「人生の嵐に」マルコ4:35-41
時は夕方、群衆を教られたイエスは湖の向こう岸へ行こうと弟子たちを促します。漁師だったペテロたちには勝手知ったる湖のこと、いつものように漕ぎ出します。そこに嵐がたきつけるのです。彼らはあらん限りの力を尽くして舟が沈まぬよ Continue Reading →
「神の国の成長」マルコ4:26-34
読み飛ばした9-12節には、神の国の奥義について教えられています。それは隠されたもの、秘密という意味合いを持っています。何がそれを隠しているかというと、それは人の頑なさです。引用されている申命記29-30章には、荒野の Continue Reading →
「世の光として輝く」ピリピ2:13-16
志という言葉を使うとき、それは「こう生きたい!ありたい!これを目指す!」という何かしらの意思を伴います。ここにある志は「神はみこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです」とあるよう Continue Reading →
「救い主が来られた」ルカ2:1-20
イエス誕生、それは御使いがマリヤに告げた言葉。思いがけない突然の知らせにマリヤは戸惑います。理解を超えたことばかりですが、彼女はそれを信仰によって受け止めました。ヨセフも同じです。許嫁の妻が身ごもるとは裏切りを意味しま Continue Reading →
「すべてを洗う愛」ヨハネ13:1-15
この箇所は「最後の晩餐」として知られている出来事です。イエスは過越の食事の途中、わざわざ、弟子たちの足を洗います。それはイエスが愛を表した象徴的な出来事です。 ところが、ペテロは足を洗っていただくことを拒みます。「決 Continue Reading →
「涙は希望に変わる」ヨハネ11:17-44
ベタニヤのマルタとマリア、その兄弟のラザロが病気にかかりました。イエスを呼びに行っている間に、ラザロは死んでしまいます。イエスが来られると二人は出迎えるマリヤ、家にいたマリアと行動は分かれます。しかし、口にすることばは Continue Reading →
「圧倒的な勝利者」ローマ8:26-39
「あしあと」という詩はよく知られています。「わたしの人生のいちばんつらい時、 ひとりのあしあとしかなかったのです。…あしあとがひとつだったとき、 わたしはあなたを背負って歩いていた。」という詩です。 年頭に掲げた「望 Continue Reading →
「信仰によっていやされる」マルコ9:14-29
この出来事に先立つのは、イエスの変貌でした。3人の弟子たちは光輝くイエスの姿に、神の栄光を垣間見る夢のような時でした。しかし、現実に引き戻されるなら、どうにも解決し得ぬような問題が目の前を覆うのです。私たちも気をつけな Continue Reading →
「心一つに」ローマ15:1-7
「力のある・力のない」とは、もともと「できる・できない」という意味です。ある人には、何の障害も、何のためらいもなく、スルッとできることがあり、一方で、どんなに努力や時間をかけてもできないこともあります。神抜きにそれを考 Continue Reading →
「神の国に生きる」マタイ6:25-34
国は何の役割があるのでしょう。一つは「秩序の維持」、ケンカをしない・止める・しないようにする。もう一つは「富の再分配」、みんなからお金を集めて、困った人がいないようにする。みんなが安心して暮らせるようにすることです。残 Continue Reading →
「聞く耳がありますか」マルコ4:21-25
この箇所は前の4つの種のたとえの続きです。「聞く耳があるなら、聞きなさい。」「聞いていることに注意しなさい。」と繰り返されて、よい地となって神のの言葉を聞くべくことに念を押しているのです。二つのたとえをおって問われてい Continue Reading →
「あなたの心の柔軟度は?」マルコ4:1-20
よく知られた4つの種まきのたとえ、私たち日本人の感覚からすると、ちょっと雑なやり方に違和感があります。そもそも道端、岩地、茨の中に種を蒔いたりしません。ミレーの種まきの絵のように、「ざぁっ」と種を蒔き、それから耕しとい Continue Reading →
「罪の赦しときよめ」レビ4:1-2, 27-35, ヘブル9:11-14
ここに命じられているのは、罪が罪とわからず罪に陥り、後から責めを覚えるときのことです。常に罪を薄めてしまう私たち、自分の心を見張ることは大切なことです。まず、その罪とは何か。確認をしておきましょう。 罪とは第一に、い Continue Reading →
「神との交わり、いのちのパン」レビ3章、ヨハネ6:35, 51-58
私たちは交わりということばをよく使います。そしてしばしば暖かいとか冷たいとか、そういう言葉遣いをします。教会本来の交わり、一致の基はどこにあるのでしょうか。教会とはキリストのからだです。からであるということは、切り離す Continue Reading →
「目が開かれた人の歩み」ヨハネ9:1-7, 24-39 N神学生
主イエスは道すがら生まれつきの盲人に目を留め、目に泥を塗ってシロアムの池で洗うように言われました。その道のりは急な坂や階段も多く、盲人の彼にとっては簡単なことではありません。信仰なくしてできないことです。彼は主イエスの Continue Reading →
「感謝をささげる」レビ記2章、マタイ6:11
出エジプトの民、奴隷として烏合の衆であった彼らを神の民として整えるために、神は彼らをシナイの荒野で訓練します。エジプトを出てちょうど一ヶ月、食糧は底をつき、パンがないとつぶやき始めます。神はマナを与えて彼らを養いました Continue Reading →
「いつまでも残るもの、愛」1コリント13:1-13
「あぁ、長生きしてよかった!」と言えるのは「今、生きててよかった」と同じでしょう。今を喜べること、過去を感謝できること、これから先に平安があること、それが幸せの3つの条件であろうと思います。長寿をいただくということは、 Continue Reading →
「すべてをささげる」レビ記1:1-17
エジプトで奴隷であったイスラエルの民は神の輝かしい救いのみわざによって自由の民となりました。彼らが神を礼拝する民として生きるために与えられたのが律法と幕屋での礼拝です。それを繰り返す中で、彼らは神の民として整えられてい Continue Reading →
「幕屋、神の聖さと栄光の前に」出エジプト40:16-38
族長時代に続くのは、出エジプトです。出エジプト記の前半には奴隷の地エジプトからの救い、後半には救われた民がどのように生きるのか、どのように礼拝するのかが扱われています。19章には、「私の宝、祭司の王国、聖なる国民」とな Continue Reading →
「祭壇を築く」創世記22:1-14
礼拝という言葉、旧約聖書では元来「ひれ伏す」ことを指す言葉です。アブラハムやロトが御使いを迎えたとき、ヤコブがエサウに再び会うとき、エジプトのヨセフの前に出る兄弟たち。十戒の偶像を拝んではならないと言われること。礼拝の Continue Reading →
「祭壇を築く」創世記22:1-14
礼拝という言葉、旧約聖書では元来「ひれ伏す」ことを指す言葉です。アブラハムやロトが御使いを迎えたとき、ヤコブがエサウに再び会うとき、エジプトのヨセフの前に出る兄弟たち。十戒の偶像を拝んではならないと言われること。礼拝の Continue Reading →
「平和の器に」コロサイ3:1-16
平和を願うところ、難しいことばは必要ありません。私たちが互いにあいさつを交わし合うことです。ヘブル語の挨拶はシャロームですが、その意味は多様です。平和、平安のみならず、繁栄、健康、充足、救い、勝利という神の祝福を祈るこ Continue Reading →
「礼拝の心、献身」ローマ12:1-2
この箇所、「ですから」という言葉で始まっています。ローマ書は、1章から11章まで、神がなしてくださった救いのみわざ、教理をパウロは語り、この12章から、信仰者の生活その適用を教えているのです。その最も重要なことは「神の Continue Reading →
「救いの目的」エペソ1:3-7
礼拝についてしばらく一緒に学んでいきます。私たちは礼拝というとどうしてもプログラムであるとか、形を考えますが、礼拝とは何ですかと問われたとき、明確な答えを持っているでしょうか。礼拝の心、姿勢、神のみこころを聖書の中に確 Continue Reading →
「私の兄弟、姉妹、母、父」マルコ3:31-35
家族に働く「均衡」という力学、イエスの家族も同じように「気が狂ったのだ」という声に連れ戻しにやってきます。ところが、イエスに近づくことすらままなりません。イエスはその呼びかけには答えず、まったく別のことを言います。「わ Continue Reading →
「それでもなお拒むのか」マルコ3:20-30
イエスの宣教の始まり、それは神の国の到来を知らせる祝福のわざが行われました。一方そこには反発・拒絶が起こります。 イエスを連れ戻しに身内の者たちがやっています。マリヤは処女降誕から始まって、神のなさる不思議なわざをそ Continue Reading →
「イエスの弟子たち」マルコ3:13-19
イエスは弟子たちを選び、任命するのですが、「山に登り」とあります。日常の喧噪から離れて祈りに集中なさったのです。イエスはしばしば、そのように寂しいところ、何もない、静かなところに退き、祈りの時を持ちました。そして、神と Continue Reading →
「みんななのか、私なのか」マルコ3:7-12
ガリラヤから始まって、続々とイエスのもとに人々が集まります。その目的はいやしです。この群衆、イエスのところに行くなら、病がいやされる。みんながイエスを自分たちにとって都合のいい、願いを叶えてくれる存在にしようとする。い Continue Reading →
「心貧しき者の幸い」マタイ5:1-9
人は生まれ育ちを選ぶことができません。N兄の生まれ育ちは過酷でした。寂しさ、不信、 信じられるは自分だけ。強く生きようとすることで自分を守ってきました。しかしその強さも、酒の力を借りなければならなかった。それが破綻して Continue Reading →
「安息日の主」マルコ2:23-28
新しいぶどう酒は新しい皮袋に。そのように新しい皮袋に自分を変えるため、やわらかな心を持つためには、伝道者7:16にある一つのことば「あなたは正しすぎてはならない」を覚えます。自分の正しさ、知恵に頼る古い頑なな皮袋です。 Continue Reading →
「新しいぶどう酒は新しい皮袋に」マルコ2:18-22
「新しいぶどう酒は新しい皮袋に」ということばはよく知られたことばで、何かを全く新しくするときに使われることばです。最初の弟子たち、彼らはイエスの招きに自分の持てるものを捨てて従いました。しかし、人は持てるものが多ければ Continue Reading →
「罪人を招くために」マルコ2:13-17
イエスの時代、この地はローマの支配下にある属州にされていました。ローマは1/10税を属州に課しましたが、その徴税は徴税請負人たちに任せました。その税に加えて属州のための税、それに請負人の「経費」、つまり不正な取り立てに Continue Reading →
「この方のところにさえ行けば」マルコ2:1-12
中風という病気、それはからだの麻痺、脳出血や脳梗塞などの病気のゆえでしょう。その人のいやし。この箇所が問いかけることの中心は「罪の赦し」、そして、もう一つは「自由」です。それをキーワードに神の語りかけを聞きたいのです。 Continue Reading →
「お心一つでという信仰」マルコ1:40-45
ツァラアトという病、それは長い間「らい病」と訳されてきましたが、それは同一ではありません。それが「らい病」と訳されたのは社会的偏見と差別のあり方が類似しているため、あえてそう訳されてきたのです。「傷を与える方は、忘れて Continue Reading →
「さぁ、出ていこう!」マルコ1:29-39
シモンとアンデレ、ヤコブとヨハネの兄弟、彼らは船も網も、父も雇い人も残してイエスに従ったはずでした。しかし、ここでは彼らの家に行きます。後にペテロは妻について家族について、愛と尊敬に溢れた温かな教えをします。一方で、イ Continue Reading →
「イエスの権威」マルコ1:21-28
カペナウムの会堂でイエスが教え始められると、人々は驚きました。「律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように教えられたから」です。彼らは律法に加えて、口伝のミシュナーやその解説であるタルムード、高名なラビのことばな Continue Reading →
「人間をとる漁師に」マルコ1:14-20
イエスの宣教の初め、それは「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」ということばから始まります。それは、今、その招きにどのように応えるのかということが迫られることばです。 の宣教の開始とともに記さ Continue Reading →
「喜ぶ者と喜び、泣く者とともに泣く」ローマ12:15-21
東日本大震災から丸7年となりました。災害が起こることは自然のサイクルです。しかし、大きなインパクトのある出来事をして、私たちは本当に必要なもの、なくてはならないもの、なくてよいものが問われ、また、心の向きがどこへ向いて Continue Reading →
「荒野の誘惑」マルコ1:9-13
イエスは荒野で3つの誘惑を受けられたことはマタイの福音書に記されています。一方でマルコの福音書には触れていません。別の意図があるのではないでしょうか。 イエスが誘惑にあわれたのは荒野です。荒野は原野とは違います。元々 Continue Reading →
「イエスは誰なのか」マルコ1:9-13
ヨハネは「罪の赦し」のバプテスマを人々に迫りました。それはバプテスマのヨハネだけではなく、異邦人の改宗者に、あるいは修道生活をする集団への入会などにも行われました。ヨハネのバプテスマはヨルダン川に出て行かなければなりま Continue Reading →
「キリストの道備え」マルコ1:1-8
マルコの福音書はバプテスマのヨハネのことから「キリストの福音」を語りはじめます。彼は使徒であるパウロやペテロと行動をともにし、その目撃証言をもとに事実を吟味して簡潔にそれを記しました。それは、旧約聖書から続く約束の成就 Continue Reading →
教会の悩みと信仰と
先日訪問した父の従兄弟から自身の属する荻窪教会の50周年記念誌、80周年記念誌を頂戴しました。送ってくださったのです。ザッと目を通しただけでも、そこには長老・執事として記録に名前がずっと刻まれていることがわかりました。 Continue Reading →
「キリスト者の成長」2ペテロ3:16-18
新しい天、新しい地を待ち望みながら地上を生きる者たち、そこにペテロは「無知な、心の定まらない人たちは…それらの手紙を曲解し」と言います。「曲解」とは「バランスを欠く、極端である」という意味です。 きよめ派の教会ではき Continue Reading →
「キリスト者の成長」2ペテロ3:16-18
新しい天、新しい地を待ち望みながら地上を生きる者たち、そこにペテロは「無知な、心の定まらない人たちは…それらの手紙を曲解し」と言います。「曲解」とは「バランスを欠く、極端である」という意味です。 きよめ派の教会ではき Continue Reading →
「しみも傷もない者として」2ペテロ3:14-15
新しい天、新しい地を待ち望む信仰、そして、それがゆえに、地上にあっても、今、すでに聖い生き方をする敬虔な人となるべきことを教えたペテロは、さらに、「しみも傷もない者として、平安をもって御前に出られるように、励みなさい。 Continue Reading →
「しみも傷もない者として」2ペテロ3:14-15
新しい天、新しい地を待ち望む信仰、そして、それがゆえに、地上にあっても、今、すでに聖い生き方をする敬虔な人となるべきことを教えたペテロは、さらに、「しみも傷もない者として、平安をもって御前に出られるように、励みなさい。 Continue Reading →
「新しい天と新しい地を待ち望む」2ペテロ3:8-13
日本人の死生観、そして終末観はあいまいです。「ゆく河の流れ絶えずして、しかももとの水にあらず…うたかたの」と謳われるように、生まれ、死に、また浮かび、また沈む。そして、終末などは意識の中にありません。ですから、今を生き Continue Reading →
「霊に燃え、主に仕える」ローマ12:4-12
このみことばの中心にあることは「主に仕える」ことです。そして「勤勉で怠らず」ということばは「熱心」とも訳されます。私たちがそのようにするときは目標がハッキリしているときです。そのためにはいのちの目的を確信して握りしめて Continue Reading →
「古い人を脱ぎ捨てる」コロサイ3:1-17
この年、一年を振り返ってみると、新しい命の誕生、天に送った兄姉、病やケガ、それぞれのところを通ってきました。限りある命を生きているのが私たち。日常に埋没することしばしですが、年の終わりにその命を振り返ってみたいと思うの Continue Reading →
「神はひとり子をお与えになった」ヨハネ3:16
聖書が語りかける主語はいつも「神は」です。そして、神は私たちのところにおられます。残念なことに私たち人間にはそれがなかなか見えません。神が人となって来られた。それは、いまだかつて聞いたことがなく、受け止めることすら難し Continue Reading →
「いのちのパン」ヨハネ6:23-40
人はカツカツの生活をしていると心が卑屈になります。一方で、豊かになると知らず知らず人を見下す高ぶった態度になる。それらはみな、生きること、パンと深く結びついています。実に私たち人間というものにとっては、たかがパン、され Continue Reading →
「小羊の救い」黙示録7:9-17
白い衣を着、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊との前に立つ人たち。私たちの心のシミ、罪や汚れ、傷や痛みはなんと消しがたく、なんと癒やしがたいことでしょうか。ところが、イエス様の十字架の血潮によって私たちの罪は洗われ、白 Continue Reading →
「心の目を開くなら」ヨハネ9:1-15
人は生まれを選ぶことができません。いくら憎んでも変えることもできません。生まれつきの盲人。彼もまたそうでした。人はそこに不幸の犯人捜しを始めます。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人 Continue Reading →
「滅びではなく、悔い改めを」2ペテロ3:1-9
ペテロはこの手紙で今一度問いかけるのは「純真な心を奮い立たせる」ことです。キリスト者生活を続けていると、恵みのありがたみを忘れ、惰性で歩み、喜びを失うような歩みになることがあるのです。離散のキリスト者が圧倒的な世の力の Continue Reading →
「神を愛し、隣人を愛す人に」ルカ10:25-37
「塩狩峠」のストーリーを知っているでしょうか。暴走列車を自らの身を投げて止めて乗客を救った話です。私は小学二年生の時に映画で見ました。同じようなことがあったら自分もと思いますが、機会はやってきません。大きな愛の行為は歴 Continue Reading →
「元の木阿弥にならないために」2ペテロ2:17-22
「犬は自分の吐いた物に戻る」、「豚は身を洗って、またどろの中にころがる」というたとえ、日本のことわざならば、「元の木阿弥」というところでしょうか。木阿弥というのは、戦国時代の大名、筒井順昭が死んだとき、まだ、幼い息子を Continue Reading →
「バラムの道とろば」2ペテロ2:11-16
この2章では、偽預言者、欲に引きずられる人の姿について教えられています。そしてそれは12節で、「自然に生まれついた、理性のない動物と同じ」と表現されています。新しい訳では「本能に支配されて」と訳し直されました。いったい Continue Reading →
「救いとさばきと」2ペテロ2:5-10
この箇所のテーマはさばきです。私たち人間にとっての問題の一つは恐れの欠如ではないでしょうか。ダビデの息子アムノンは異母姉妹であるタマルを犯します。ダビデはそのことをに憤りを感じながらも何もしませんでした。正しくさばくこ Continue Reading →
「最期のときの迎え方」創世記50:12-26
「老い」、それは人の宿命でしょうか。ポール・トゥルニエは老いを受け入れる諾、それは人生のすべてにおいて、生まれた時代、親、家族、兄弟、場所や国、それをありのままに受け入れる諾こそが、鍵だと言います。ヨセフの最期にそれを Continue Reading →
「偽預言者、偽教師」2ペテロ2:1-4
偽預言者、それがイスラエルの中からでたことが書かれています。1列王18章のアハブ王の時代のことを見てみましょう。彼は国内外において政治的に成功を収めます。外交的に友好関係を結び、そして、経済的にも上手く行きます。王とし Continue Reading →
「みことばを灯火として」2ペテロ1:19-21
私たちの世界は暗やみに覆われています。争い合う世界は知恵を尽くします。しかし、すべてのこと、私たちの身の周りから世界大に至るまで、すべての暗やみの原因は人の罪であり、それを誘う暗やみの支配者であるサタンに覆われているの Continue Reading →
「キリストの目撃者」2ペテロ1:16-18
人はことを「見たいようにしか見ず」、「都合のよいように聞く」という習性ががあります。それがゆえに尊い神の教えをねじ曲げ、作り話を付け足し「うまく考え出した作り話」にしてしまうことがあります。なぜでしょうか。 それは、 Continue Reading →
「私の務めと残すべきもの」2ペテロ1:12-15
この箇所で、注目したいことは二つのことです。第一はこの「幕屋」とペテロが呼んだこと、もう一つは、「私のなすべきこと」として努めたい彼に与えられた使命です。 幕屋はエジプトの奴隷から救い出されたイスラエルの民に与えられ Continue Reading →
「召されたこと選ばれたことを確かに」2ペテロ1:4-11
恵みによって救われた者たちの歩みは「神のご性質にあずかる者になる」という聖化に招かれています。私たちは、どこから救われて、どこに向かい、今、どこを走っているのか、広い視点で見渡し、それを常に覚えていなければ、目先のこと Continue Reading →
「神のご性質にあずかる」2ペテロ1:5-8
私たちに与えられた救い、それは私たちが「世にある欲のもたらす滅びを免れ、神のご性質にあずかる者となる」こと。それがゴールです。だからこそ、「あらゆる努力をして」とペテロは言うのです。 努力ということばは、力を尽くして Continue Reading →
「すばらしい約束」2ペテロ1:1-4
第一ペテロの手紙、それは世の流れの中にあって苦闘する各地に散ったキリスト者を励ます手紙でした。一方、第二ペテロは、純正な信仰に留まることを教える手紙です。今年は宗教改革500年です。いつしか、信仰が変質してしまった。そ Continue Reading →
「ここに立つ」1ペテロ5:12-14
長く学んできたペテロの生涯、福音書に読む彼の生涯と重ね合わせるときに、その教えは重みを持って私たちに迫ることばです。 「愛の口づけをもって互いにあいさつをかわしなさい」という勧め、それは1:22にでてきた「あなたがた Continue Reading →
「神のご支配」1ペテロ5:10-11
圧倒的に世の流れの中で、小さく力のないように思えるキリスト者。しかし、「選ばれた人たち」(1:1)です。天にある救いの完成のお約束をいただきながらも、今、この地上を生きる者たちはさまざまな試練を通る。狭間を生きている者 Continue Reading →
「悪魔に立ち向かう」1ペテロ5:8-9
依存症の回復グループには「今日一日」ということばがあります。依存する生活にやらずに過ごせる自信もなければ、約束もできない。ただ、今日の一日だけという積み重ねによって今を生きるということです。同じように、悪魔に立ち向かう Continue Reading →
「イエスの弟子に加えられる恵み」使徒2:36-42
ペンテコステのその日、御霊に満たされた人達にいくつかの「しるし」が与えられました。しかし最も大きなしるしは3,000人が弟子に加えられたことです。彼らは何を与えられたのでしょうか。 第一に罪が示されたということです。 Continue Reading →
「思い煩いをゆだねる」1ペテロ5:7
この前でペテロが語った「謙遜」と「ゆだねること」は裏表です。謙遜でなければゆだねることはできません。また、ゆだねることができなければ謙遜ではありません。 私たちの毎日の生活には思い煩いが尽きません。イエス様も山上の説教 Continue Reading →
「謙遜を身につける」1ペテロ5:5-6
身に着けるという概念は新約聖書の中ではよく使われる表現です。私たちは実に様々なものを身に着けますが、身に着けたように振る舞い、あるいは生きます。私たちが謙遜を身に着けるとはどのようにしてでしょうか。 黙示録3章には、 Continue Reading →
「牧者の務め」1ペテロ5:1-4
ペテロは教えを委ねる長老について書き送ります。ここで言う長老という務めは必ずしも明確ではありませんが、2節で「神の羊の群れを、牧しなさい」と言われていますから、教会の指導者たちを指すのでしょう。 ペテロはまず、自分を Continue Reading →
「復活のいのちを得る」ヨハネ20:19-31
復活の日の夕方、弟子たちが集まっているところにイエス様はお顕れになりました。そこで、イエス様が弟子たちにかけられたことばが、「平安があなたがたにあるように」ということばです。復活の後に最初にかけられたことばであるがゆえ Continue Reading →
「十字架のイエス」ヨハネ19:17-37
イエスの罪状書きとして掲げられた「ユダヤ人の王、ナザレ人イエス」。それは、ダビデの再来、メシヤの到来の待望でした。ダビデの時代、それは周囲の国々を従え、最も栄えた時代です。復活の後ですら、弟子たちは「主よ。今こそ、イス Continue Reading →
「自分のたましいをゆだねる」1ペテロ4:17-19
キリストの名のゆえに受ける試練、それとともにペテロは罪のゆえに苦しみを受けることがあってはならないと言います。そしてここに、「さばきが神の家から始まる時が来ている」と迫るのです。旧約時代に神がなさったさばきに着目してみ Continue Reading →
「恥じることなど何もない」1ペテロ4:12-16
クリスチャンになれば、キリストを信じるならば、何もかも解決し、すべてがうまくいく。必ずしもそうではありません。むしろ、キリスト者になったがゆえの苦しみや試練を経験するようになる。何のためでしょうか。 ペテロは、その試 Continue Reading →
「賜物は誰のために」1ペテロ4:7-11
「親切にもてなす」と訳されていることば、それは英語ではホスピタリティー、それは人を喜ばせること、人の喜びのために自分をささげることです。 ところが、私たちに「つぶやき」は少なくありません。私たちの心に何が働いているの Continue Reading →
「今は終わりのとき」1ペテロ4:7-8
「万物の終わりが近づきました」ということばは私たちに「心を整える」べきことを迫ります。一方で、私たちの心には「正常化への偏見」なるものが働きます。それは自分に都合のよい情報は大事にするが、都合の悪い情報を無視し、あるい Continue Reading →
「何のために生きるのか」1ペテロ4:1-6
ペテロはここに「地上の残されたとき」という言葉を使います。キリスト者は「やがてと今」の狭間に生きています。イエス様は山上の説教で「神の国とその儀とをまず第一に求めなさい」(マタイ6:33)と教えました。天と地はつながっ Continue Reading →
「武装宣言」1ペテロ4:1
「武装宣言」とは、ものものしい題をつけました。キリスト者生活には戦わなければならないことがあるのです。3章ではそれは外から来るものでした。この4章では、目に見えない戦い、外部から来るものよりもむしろ、自分自身の内側から Continue Reading →
「救いは神のもの」1ペテロ3:17-22
「もし、神のみこころなら、善を行って苦しみを受けるのが、悪を行って苦しみを受けるよりよいのです。」それは「いのちよりも大切なことがある。いのちをかける価値がある。」からです。また、キリスト者に与えられている救いが、この Continue Reading →
「心の確信」1ペテロ3:13-17
ペテロの手紙のキーワードの一つは「選び」です。神のあわれみによって選ばれた。その生き方は「互いに熱く愛し合え」。それはキリストの足跡に従うことです。それは一方で義のための苦しみを受けます。 ハドソン・テーラーは中国奥 Continue Reading →
「新しい人を着る」コロサイ3:1-17
「着る」ことは、とても象徴的なことです。人が最初に身に着けたもの。それはイチジクの葉。人が堕落した途端、裸を知り、覆い始めるのです。まったく隔てのない交わりの中にあった彼らの間に壁ができてしまいました。神は彼らに皮の衣 Continue Reading →
「捨て去るべきもの」コロサイ3:1-10
「師父ポイメンが師父ピオールについて語ったところでは、彼は毎日をまっさらに新しく始めていた。」荒野で修道生活をした4,5世紀の教父のことばです。この箇所、「こういうわけで」と始まっています。大切なのはこの前で語られている Continue Reading →
「救い主が来られた」黙示録3:15-22
「救い主が来られた」黙示録3:15-22 15 「わたしは、あなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく、熱くもない。わた Continue Reading →
「神のなさることを受け入れるなら」マタイ1:17-25
イエス誕生のストーリーの中で、ヨセフという人は控えめに出てきます。彼はただ、二つのうちどちらを選ぶかを突きつけられました。それは、目に見えることだけを信じるのか。それとも、目には見えないことを信じるのかの二つです。 Continue Reading →
「救いの喜び、王か来られる!」ゼカリヤ9:9-17
ゼカリヤ書は、捕囚の民がエルサレムに帰還し、神殿を再建している前後のことです。彼らは故国に帰還し、まず神殿を再建します。いわば復興の足がかりを得た。そういう時代です。ところが、神殿再建から、70年ほど経ったネヘミヤ記を Continue Reading →
「嘆きは慰めに」哀歌5章
哀歌の背景、それは預言者エレミヤの時代、「エレミヤの哀歌」とも呼ばれ続編に近い嘆きの歌です。それは涙の預言者と呼ばれた彼の預言にもかかわらず、それに従わなかったユダが滅ぼされたからです。 彼が委ねられた預言のことば、 Continue Reading →
「善に熱心であれ」1ペテロ3:13-15
悪か善か、キリスト者生活はいつも二者択一です。ここでは「もし、あなたがたが善に熱心であるなら」という言い方がなされていますが、それは意訳をするならば、「善に熱心であるあなたがた」という意味です。そこで問われるのは、この Continue Reading →
「御霊の人に」ガラテヤ5:22-23
大人になったら何になる?それは子どもにとって職業を意味します。しかし、もっと大切なことは、どんな人になるのかです。「御霊の人になる。」それを学び、祈りとしたいと思います。 御霊ってどんなお方なのか。ヨハネ14章ではイ Continue Reading →
「悪をもって悪に報いず」1ペテロ3:8-12
私たちの世界、「悪をもって悪に報いず」あるいは「右の頬を打たれたら、左の頬を」そんな生き方ができるんだろうか。それは、理想であって、理想は持ちながらも現実に対応するべきだと考えるキリスト教現実主義という神学があります。 Continue Reading →
「心を一つにする」1ペテロ3:8-9
ペテロは王に従い、主人に従い、夫に従い妻を愛する生活を教え、さらに教会という交わり、周囲の関係に表すべきことを教えています。ここで「…祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。」と教えられ Continue Reading →
「いのちの恵みを共にする夫婦」1ペテロ3:1-9
ペテロの手紙は自由人として、一方で神の奴隷として生きる生き方が実際の人間関係の中に表されるように、その最も近い夫婦、とりわけ、ここでは「夫たちよ」と教えます。 ペテロはここに「わきまえること」、つまり理解することにつ Continue Reading →
「心の中の隠れた人柄こそ」1ペテロ3:1-9
ペテロはここにキリスト者の生き方として夫婦の問題について教えます。「妻たちよ。夫に服従しなさい」とは、時代が違うと受け取られるような教えに見えるかもしれませんが、そうではありません。表向きの男女、夫婦の関係が変化したか Continue Reading →
「十字架こそすべて」1コリント15:1-5
洗礼式を前に、ともに私たちが信じている信仰をともに確認したいと思います。福音、それはよき知らせです。新聞の号外が出るとき、それは勝利の喜びを知らせるときです。私たち人は「ありがとう、ごめんなさい、ゆるします」という3つ Continue Reading →
「お墓のはなし」創世記23:1-20
この箇所は、アブラハムが妻サラのために墓地を買った話です。私たちはやがて死に、葬られます。どのようにこの世の命を閉じ、どのように平安をもって天に帰るのか。この世で生きた意味は何だったのか、何を残していけるのか。お墓の問 Continue Reading →
「すべてがキリストのもとへ」1ペテロ2:18-25
私たちは絶えず何かしら解決したい問題を抱えています。おおよそ、人が考えられる解決は、力や仕組み、社会を変えれば、状況を変えればことが動く。そのような向きに向かいます。ところが、ここでペテロが語るのは、「キリストの模範に Continue Reading →
「苦しみを耐え忍ぶ」1ペテロ2:18-21
ペテロの手紙で私たちの人の関係、そのキーワードとなるのは、1:22の「互いに熱く愛し合いなさい」という言葉です。ところがそれは兄弟姉妹の間、実際には、そういかない一方通行の世界が私たちの生きる世です。しかも、ペテロの勧 Continue Reading →
「世の権威と自由」1ペテロ2:13-17
この箇所はキリスト教会の歴史の中で様々な解釈と理解がなされ、教会は何度も揺さぶられてきました。宗教改革者のルターは次のように解釈しました。神は世界を支配するために二つの剣をお与えになった。ひとつの剣は信仰の世界を治める Continue Reading →
「旅人であり寄留者」1ペテロ2:11-12
「旅人であり寄留者」、それはヘブル人への手紙11章でも信仰の先達たちについて語られています。アブラハムはまだ、その約束を見てはいません。空の星、海辺の砂のような子孫を見てはいません。しかし、もう生まれることも期待できな Continue Reading →
「やみから光へ」1ペテロ2:9-10
私は何者か。ペテロは「選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民」だと言うのです。「選ばれた種族」それはアブラハムから始まります。アブラハムの召命を意味するところは第一に、今までのあり方を捨てること、第 Continue Reading →
「尊い礎石キリスト」1ペテロ2:3-10
「生ける石として霊の家に築かれる。」それはキリストの教会の一部として、一人一人がなくてはならない大切な存在だということです。ペテロは家と石というたとえを使いましたが、パウロは「からだと器官」というたとえを使って同じこと Continue Reading →
「ゴールを目指して」1ペテロ2:1-4
キリスト者の成長、それは何によって測ることができるでしょうか。それは愛です。この2章のことばは「ですから」ということばで始まっていますが、1:22の「互いに愛し合え」ということば、新しく生まれ、生き方の向きを変えられた Continue Reading →
「朽ちない種、神のことば」1ペテロ1:23-25
ここで一章が終わります。その内容を簡潔に言い表すとすると、次のように言うことができます。「神の恵みによって選ばれた人たち、あなた方は世にあってはごく少数派、様々な困難と試練に今はおかれている。でも、十字架と死に復活をも Continue Reading →
「本当の神頼みとは」1ペテロ1:20-21
世の始まる前、永遠から永遠の中にキリストは三位一体の神でした。そのお方が、人となって世に降り、「終わりのとき」、いよいよ救いのご計画を成し遂げるこのとき、私たちのところに来てくださったのです。処女マリヤから赤ちゃんとし Continue Reading →
「霊の父の愛の訓練」へブル12:1-11
著者は、信仰者が通される「主の訓練」に触れます。私たちが間違いを犯すときに主の懲らしめを受け、また、あらゆる訓練を受けているということは、神が私たちを子として関わっておられる神の愛の現れなのです(5-7節)。 肉親の Continue Reading →
「互いに熱く愛し合え」1ペテロ1:22
私たちのいのち、それは互いに愛し合い、一つになることによって神の御栄えを表すために造られました。ですから、そのことに一番の喜びを見いだすのです。しかし、そこに罪が入りました。神に従うことを喜ぶ、別の言い方をするならば、 Continue Reading →
「キリストの血によって」1ペテロ1:17-19
この節は「また」で始まります。それは先の勧めが神に対してのわきまえであるとすると、もう一つ、私たちはどうしても、周りとの関係、人との比較の中でものを考えるからです。私たちの歩みのもう一つの側面と現実を教えます。 人類 Continue Reading →
「聖なる者に」1ペテロ1:13-16
聖書の「聖」とは、取り分けること。一般に聖人と使われるような清らかなイメージとは結果的にそうであっても、元々は違う言葉です。聖別ということばも使われます。旧約聖書に出てくることばで考えてみましょう。 イスラエルの救い Continue Reading →
「幸せと不幸せに生きる幸せ」ルカ11:27-28、ゲスト説教
私たちが願う幸せとは何でしょうか。ある人にとって、それはたくさんのお金だったり、尊敬される地位だったり、良い関係だったりします。それは確かに幸せを感じさせるものでしょう。しかし、それで満足しきった人はいません。それら地 Continue Reading →
「再臨を待ち望む」1ペテロ1:13
短い一節、テーマは「再臨」です。初臨であるクリスマス、復活のイースターは常に祝われていますが、再臨がクローズアップされることは多くありません。 聖書の死生観・終末観は明解です。キリストが再臨してこの世をさばき、この世 Continue Reading →
「聖霊が導く救い」1ペテロ1:10-12
たましいの救い、何ものにも代えがたい喜びをいただいている私たち、一方で地上の歩みの中にはどうにも越えがたい壁が立ちふさがります。 預言者たち、彼らも壁がありました。その一人、エゼキエルは捕囚の地で預言した預言者です。 Continue Reading →
「栄えに満ちた喜び」1ペテロ1:8-12
喜びの秘訣、それは「信仰の結果である、たましいの救いを得ている」それがペテロの伝えるメッセージです。 私たち人は、ちりで形造られ、神がいのちの息を吹き込まれて生きる者となりました。神がご自身のかたちに人をお造り下さっ Continue Reading →
「試練は金よりも尊く」1ペテロ1:3-7
私たちは神の恵みによって選ばれ、天に約束された永遠のいのちの恵みをいただくものとされている。それが生ける望みであることを確認したペテロは、一方でこの世にあっては様々な試練に遭うことを語ります。 初代教会の歩み、使徒の Continue Reading →
「生ける望み、確実な資産」1ペテロ1:3-5
「生ける望み」、それは「新しく生まれること」。聖書の中ではペテロもともに聞いたであろうヨハネ3章のニコデモのストーリーを思い出します。イエスがニコデモに告げたのは「肉によって生まれた者は肉、御霊によって生まれた者は霊」 Continue Reading →
「選ばれた恵み」1ペテロ1:1-2
山上の説教を順に学び、次にご一緒に学ぶように導かれたのは1ペテロです。イエス様の最も身近で教えを聞き、みわざを見た一人がペテロです。彼が何を示され、それを生きるように導かれたのか。ご一緒に読み進めたいと願うのです。 Continue Reading →
「いのちの木への道」創世記3章、李宣教師
この箇所にある「取って食べた」という簡単な行動で人は罪に陥って、死に至る道を歩み始めた。ヘビは人に罪を犯させるため、神様の言葉、権威、力をはじめ、愛、恵み、知恵、きよさなどの性質を疑わせ、人に自分が神様と同等になれると Continue Reading →
「すべてのことを、つぶやかず、疑わずに」ピリピ2:1-18
春を迎え、それぞれ新しい務めをいただいきます。「精一杯がんばります」と私たちは思い新たにスタートしますが、上に立つと、急にえらくなったような振る舞いをしたり、抱え込んで疲れたり、燃え尽きたり。神から離れては、周りとの比 Continue Reading →
「あなたがたとともにいます」マタイ28:1-20
カルバリの十字架。受難週を過ごした私たちは、それにふさわしい歩みをしているだろうか。それにふさわしからざることがあるならば、それは愛の不在。それはカルバリの愛から離れているしるしです。さて、復活の記事は福音書によって異 Continue Reading →
「身代わりの十字架」マタイ27:26-54
イエス様の十字架への道、そこに関わる人たちを5つに分けて考えてみましょう。 弟子たち。彼らは逮捕の直前まで決して裏切らない。「たとえ死ななければならないとしても」と誓ったにも関わらず、みな逃げ去ります。最後までついて Continue Reading →
「私の願いではなくあなたのみこころを」マタイ26:36-56
受難節を迎え、ゲッセマネの祈りからその格闘を心に留めたいと思います。 十字架の苦しみ、その極みは「我が神、我が神、どうして私をお見捨てになったのですか」という叫びでしょう。一つであるものが引き裂かれるという痛み。私た Continue Reading →
「主イエスさまの招き」マタイ9:9-13、ゲスト説教
取税人マタイにイエス様は「私についてきなさい」と声を掛けました。取税人は不正な取り立てのゆえ、ローマの手下になるゆえ、人々から罪人と見なされていた人。それがイエスの恵みをいただくのです。 ルカの福音書を見るとそこには Continue Reading →
「イエスの権威」マタイ7:28-29
山上の説教の最後の2節は付け足しのように見えるところですが、聞いた者がどのように受けとったのか、イエスの教えに対する反応が記録されています。それはまた、あなたはどのように受け取るのかという迫りです。 群衆はイエスの教 Continue Reading →
「人生の嵐に遭うとき」マタイ7:24-27
私たちの人生に起こる雨、洪水、風。それは岩の上に建てた家にも、砂の上に建てた家にも同じように起こります。それは信仰を持つ者も、そうでない者も、同じように嵐に遭うのです。3つのエピソードから嵐にどう向き合うのか、考えてみ Continue Reading →
「砂の上か、岩の上か」マタイ7:24-27
主イエスはここで家を建てるたとえをしてどんな人生、いのちを生きようとしているのかを問うておられます。私たちは尊いいのちをいただいています。しかし何を建てているのか目標を定めることより、日々のことに追われていることが少な Continue Reading →
「天国に入る条件」マタイ7:15-23
音声を聞く
「ニセモノにご用心」マタイ7:15-20
山上の説教、神の国を生きる教えを生きることは狭き門。厳しい要求が求められていることをご一緒に学びました。続いて主が語られたのは、偽預言者に気をつけよ。ニセモノにご用心!ということです。それは主の教えを曲げてしまう異端、 Continue Reading →
「狭い門から入れ」マタイ7:13-14
長く学んできた山上の説教、その教えは実質的にこの前の12節で終わり、ここからその教えを生きるための奨め、適用、迫りです。3つのたとえでそれを問いかけます。 もう一度、山上の説教全体を振り返ると、それは神の国を生きる者 Continue Reading →
「人には、自分がしてもらいたいように」マタイ7:12
黄金律と呼ばれるこの「何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい」という主イエスの教えは、聖書以外にも様々な宗教の教えにもあります。相手の立場に立ってものを考えるか否か、小さなことの積み重ねで Continue Reading →
「王の王、主の主を讃える」黙示録19:1-16
新しい年を迎えて年間聖句を掲げました。キーワードは賛美。この黙示録では「主の主、王の王」として勝利を讃えます。救いの完成の時です。一方、私たちの今はまだ未完成。その狭間を生きる私たちが主の祈りを鍵に賛美するべきことを覚 Continue Reading →
「捨てるべきもの、慕い求めるべきもの」1ペテロ2:1-9
このペテロの手紙、一章の初めを読むと、宛先が書かれています。各地に散った少数派のキリスト者たちが励まし合って信仰生活を送っている。今も昔も、場所が変わっても同じなのです。 「すべての悪意、すべてのごまかし、いろいろな Continue Reading →
「王の誕生」マタイ2:1-23
私たちは自分の人生の王様、別の言い方をすれば自由に喜びもって生きたいと願っています。しかし、それが許されない世界が私たちの世界。誰かが自分の人生に君臨して虐げられたり、痛めつけられたり、またその逆であったり。修復しよう Continue Reading →
「救いは悔い改める者のところへ」イザヤ59:1-20
暗やみで人は道を失います。目の前を一生懸命に照らしては行くべき道、帰るべき道を探しますが見つかりません。「私たちは光を待ち望んだが、見よ、やみ…」そして、手探りでどうにかしようとうめきます。最も必要なことは、動かぬ確か Continue Reading →
「求め、捜し、叩け!」マタイ7:7-11
どうにもならない時、私たちはなりふり構わず求め、捜し、叩きます。このことばは、そのようなときに私たちの願いが叶うとか、あるいは心くじけないことだとか、道が開けていくものだとか、キリスト者でなくても使われることのあること Continue Reading →
「見分ける力」マタイ7:6
「○○力」という言葉がよく使われるようになりました。それは生き方を示すことばですが、私たちクリスチャンにとって、それは「見分ける力」です。「聖なるものを犬に…豚に真珠」、そんな生き方になってはいないか、神に喜ばれるみこ Continue Reading →
「一番大切なこと」ルカ10:25-37
大人になったら何になる?という質問をすると、子どもは職業を思い浮かべ、夢を話します。でも、もっと大切なことは永遠に関わること、永遠に価値あるものです。この箇所では、それを求めた律法学者が律法には何と書いてあるかと問われ Continue Reading →
「ちりと梁」マタイ7:1-2
「さばいてはならない。」その理由は、さばかれないためです。それは、いつも批判ばかりして人のあら探しをするような人は、同じように人からさばかれるという当然のことだけではありません。神のさばきを受けるものであることをわきま Continue Reading →
「さばく人の心の狭さ」マタイ7:1-2
主イエスは6章の終わり、この直前で、「神の国とその義を第一に求めなさい」という信仰者の目指すべきことについて明らかにした後、新しい区分を始めます。神を愛することと隣人を愛することは不可分です。その隣人を愛する第一は「さ Continue Reading →
「神の国とその義」マタイ6:25-34
二つの問いかけを聞いてきました。あなたの宝は何ですかという問いと、心配ごとに揺さぶられていませんかという問いです。何を第一にするのか、何を支えとするのか。それはすべてを知っておられる神の他ない。「だから」と一連の教えを Continue Reading →
「神はすべてを知っておられる」マタイ6:25-32
あなたの宝は何か?という迫りに続いてイエス様は私たちの心配する心についてチャレンジを与えます。心配と訳されることばは、思い煩い、思い悩みとも訳されています。心が定まらずグラグラと揺り動かされていることです。その心配とは Continue Reading →
「別れの時が来たなら」使徒20:32-38
老いとは何か?「老いとは神様からいただいたものを一つずつお返しして、天に帰る備えをすること。」ある姉妹の定義です。一方で若い日には覆い隠していたことも、その力がなくなって露わにされるようなことは少なくありません。不平不 Continue Reading →
「あなたの宝はどこですか」マタイ6:19-24
私たちは阪神淡路大震災、東日本大震災、二つの大きな大震災を経験しました。かたちあるものは必ず失うときがあり、本当に必要なものはわずかであることを見聞きしてきたはずですが、私たちは地上の宝に目を奪われ、心を奪われる愚かな Continue Reading →
「あなたのいのち誰のため?」マタイ6:13
主の祈りの最後、私たちが誰のため、何のために生きているのかを問いかけられる祈りのことばです。この部分、注には最古の写本には欠けているとあります。聖書が書かれた時代、他にも類似の書物がいくつも書かれました。聖書とされるに Continue Reading →
「聖さを求める」マタイ6:13
「私たちを試みに合わせないで、悪からお救いください。」この祈りは私たちが誘惑から守られ、引きずり下ろす闇の力に打ち勝つことができるようにという祈りの向きとともに、もう一つの向き、聖さを求めることを祈る祈りでもあります。 Continue Reading →
「誘惑の手は巧妙に」マタイ6:13
主の祈りはルカの福音書にもありますが、その教えられた時の背景が違います。イエスが祈っておられたのを見て、弟子が祈りを教えてくださいと願うのです。人は一度では覚えられないし、大切なことは繰り返すものです。おそらくイエスは Continue Reading →
「神のみこころ、神の思い」マタイ6:9-10
祈り、それは「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です」(1ヨハネ5:14)とのみことばのように、私たちが神のみこころに沿った者に造り変えら Continue Reading →
「赦され赦す、愛され愛す」マタイ6:12
負い目、それはやがて神の御前に清算しなければならない罪であることを学びました。その赦しの土台はどこにあるのか。返しきれない負い目を赦されたゆえに赦しを祈る。2つのことを覚えたいのです。 赦しの土台、それは贖いです。贖 Continue Reading →
「罪の赦し」マタイ6:12
私たちの世界は決して難しいことばを必要とはしていません。「ありがとう、ごめんなさい、赦します」という3つがあれば、たいていの問題は解決します。しかし、私たちの心は「あたりまえ、そっちが悪い、顔も見たくない」と真逆のこと Continue Reading →
「日ごとの糧を与えたまえ」マタイ6:11
主の祈りの初めの3つの祈り、それは神中心の生き方を求め願う祈りでした。後半は私たちの必要を祈る祈りです。日ごとの糧、それは明日のための糧、必要な糧、日用の糧とも訳されます。それは、この語が聖書の中でここしか使われておら Continue Reading →
「御国の戦い」マタイ6:9-10
御国が来ますように。終末の完成を待ち望む私たちですが、地上ではそのための戦いがあります。イエスが来られたとき、悪霊からの解放がありました。御国のしるしです。一方、戦いは、悪魔、サタンとの戦いです。世には人を惑わす霊媒、 Continue Reading →
「御国の拡大」マタイ6:9-10
御国が来ますように。その祈りは、主イエスのご支配の拡がりを願う祈りであり、宣教の前進のための祈りです。イエス様は神の国とはからし種のようなものであり、またパン種のようなものだと教えられました。ほんのわずかなものが大きく Continue Reading →
「御国が来ますように」マタイ6:9-10
「御国」と訳されていることばの原意は「あなたの王国」、英語ではKingdomと訳されます。国は国でも、王政、立憲君主制、合衆国などいろいろありますが、王国とは王が支配する国のことです。旧約聖書の最初の王から考えてみたい Continue Reading →
「輝かしい日が来る」使徒2:1-24 李宣教師
ユダヤ人の七週の祭りの日に、聖霊が臨まれ、満たされた。風のような響きと炎のような分かれた舌のしるしで現れて120人の弟子たちは他国の言葉を話しだした。この出来事は、全世界にも、キリストの教会にも、そして人間の一人ひとり Continue Reading →
「何のためのいのちなのか」マタイ6:9
主の祈りは続いて「御名があがめられますように」と私たちが第一に願うべきことを教えます。御名とは何を意味するでしょう。名は体を表すと言われるように、関係を表し、あるいは内実を表します。 アブラハムに現れた主は「エルシャ Continue Reading →
「誰に向かって祈るのか」マタイ6:9
マックス・ルケードの「大切なきみ」という本があります。互いを評価し合うことに疲れた木彫りの小人が自分を造った彫刻家のもとで、造り主は大切に思っていることを教えるストーリーです。私たちのいのちも神に造られたいのちです。造 Continue Reading →
「断食とお化粧」マタイ6:16-18
私たちには断食の習慣はありませんが、聖書の中にはしばしば断食が祈りと組になって出てきます。「ネット断食効果あり」との新聞記事がありました。断食はいわばリセットです。大事なこととそうでないことの区別がわからなくなる。その Continue Reading →
「祈りの心はどこに向くのか」マタイ6:5-8
善行、祈り、断食という3つの「霊的生活」、本来それは私たちが心から神に向かうべきこと。しかし、その心の向かう先がおかしくなることがあるのです。 ユダヤ人は朝、昼、夕という祈りの習慣を持っていました。その時間になると「 Continue Reading →
「人前なのか、神の前なのか」マタイ6:1-4
山上の説教は6章に入ると、新しい区分が始まります。教えられているのは、施し、祈り、断食といういわゆる霊的生活、そして、お金、財産、時間という世の生活です。毎日の生活に密着してどのように生きるのかを問うのです。 ここで Continue Reading →
「天の父が完全なように」マタイ5:43-48
「完全なんてムリ、ムリ。だって、人間だもん。所詮、しょうがない。」私たちはそう思います。完全を求められても、私たちは言い訳をします。罪の思いは「思い通り」。そのため「いそぎ、いばり、いじけ」ます。イエス様の誕生のとき、 Continue Reading →
「私たちの希望、復活!」ルカ24:13-53
私たち人間はいくつもの困難を乗り越える様々な知恵を持っています。しかしながら、どんなことをしても乗り越えることができない壁、死だけは取り返すことができません。そして、その先がわからない不安から、生まれ変わりや霊の存在を Continue Reading →
「イエスの裁判」ルカ22:66-23:25(李宣教師)
イエスは十字架に架けられる前、ユダヤ議会、ピラト、ヘロデ王、群衆によって、四回の裁判を受けた。この四回の裁判でイエス様の身分の4つの側面を明らかにされた。 ユダヤ人指導者は議会で、「イエスがキリストかどうか」という争 Continue Reading →
「敵を愛せ」マタイ5:43-45
この5章の最後の教えは隣人との関係について教えるものです。「右の頬を打つような者には…」、それは徹底した赦しを、「下着を取ろうとする者には…」、それは求められた以上に与える愛を教えます。さらにこの箇所で問われることは自 Continue Reading →
「欠けているからこそ」出エジプト記4:10-17、近藤宣教師
エジプトの地で増えたイスラエル人は過酷な労働を課され、その民の叫びを聞いた主は、モーセを使って民を乳と蜜の流れる地に連れ出そうとします。でもイスラエルの民やパロのもとに行くように言われたモーセは、「私はことばの人ではあ Continue Reading →
「愛はいつもそれ以上」マタイ5:38-42
右の頬だけではなく左の頬もと徹底して赦すことを教えられた私たち。それは内なる獣に従うことではなく、御霊の導くイエスの足跡に従う歩みへの招きですが、さらに一歩進んだ教えを学びましょう。 「下着を取ろうとする者に上着も与 Continue Reading →
「目には目、歯には歯でいいのか」マタイ5:38-39
「目には目、歯には歯」、それは報復、復讐のことばとして知られています。聖書の中では、アブシャロムのストーリーがまさにそれです。腹違いの兄アムノンに妹タマルを犯された彼は復讐の機会を窺い、アムノンを殺します。父ダビデは愛 Continue Reading →
「誠実に生きる」マタイ5:33-37
私たちの日常生活に誓いは決して珍しいことではありません。別の言葉に置き換えて契約ならば、その責任について問われます。あるいは恩と情ならば、それが裏切られれば裏切り者になり、情けのかけらもないのかと憤慨したりします。古今 Continue Reading →
「結婚のきよさを保て」マタイ5:31-32
生きている限り男であり、あるいは女。それが私たち人間。そしてその結びつきである結婚は世代によって考え方が大きく違うでしょう。また、民族や国によっても違うでしょう。しかし共通する問題はそこに混乱があることです。神を知らな Continue Reading →
「試みに勝つために」マタイ4:1-11・李宣教師
イエスの受洗で「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」と天から伝えられて、イエスの神の子の立場と救い主としての使命が確認された。それを知っていた悪魔は3、6節の「あなたは神の子ですから」という意味合いを持つ「あ Continue Reading →
「捨てるべきもの」マタイ5:27-30
姦淫ということば、日常で耳にすることはありません。淫行、セクハラ、ストーカー、それは毎日どこかで耳にします。汚いものにでも触れたような嫌悪感を覚えることもありましょう。従軍慰安婦、それはまた国の責任はどうかと問いかける Continue Reading →
「仲直りすれば」マタイ5:21-26
「殺してはならない」、その神の戒めは行いだけではなく、心の中の思いをも問うものでした。人の目には見えなくても、神は裁かれる。一方で十字架の血潮で赦しをいただいている者ならば、目に見える隣人との間に平和をつくること。それ Continue Reading →
「殺すな」マタイ5:21-22
「『人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない』と言われたのを、あなたがたは聞いています。」律法学者やパリサイ人、彼らはこの教えを表向きの型、あるいは行いの問題だけとして教えていました。人々もまたそ Continue Reading →
「祈りに生きる」エペソ6:10-20
新しい年を迎えました。思い新しくしても毎年同じところを回っているようにも思える私たちの歩み。しかし、それは天の都を目指すバニヤンの天路歴程のよう。螺旋階段のように回っているだけはなく、天に向かって前進しているのです。 Continue Reading →
「一年の感謝をともに」ローマ16:1-16
この一年、「いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことについて感謝」、このみことばを掲げてきました。喜びとはギリシャ語のカイロー、挨拶、Greetingとも訳される言葉でした。心から喜んで、どんな人にもどんなときにも挨拶を交 Continue Reading →
「神の思いはキリストを通して」イザヤ53:10-12
クリスマスということば、それはキリスト=救い主、とミサ=礼拝が合わさってできたことばです。救い主を礼拝する。その救いとは何を指すのでしょう。 ここに罪、罪過、咎ということばが出てきます。このイザヤ書の1章を開くと、「 Continue Reading →
「自分を捨てる愛」イザヤ53:7-9
「きよしこの夜」の歌の歌詞はどこかクリスマスの出来事の意味がぼやけた感がぬぐえません。実はオリジナルには、6番まで歌詞があります。それは罪からの救い主キリストがこの夜、人となって私たちのところに来られたというメッセージ Continue Reading →
「身代わりの傷」イザヤ53:4-6
人生、山あり谷あり。しかしながら、一番の問題はどこへ向かっているのか、人生の目的・目標です。 イザヤ書のこの箇所、「私たちは羊のようにさまよい」と言います。羊は群れでなければ生きていけない動物です。その羊がさまようと Continue Reading →
「逃げても逃げてもついてくる」第1列王記19章1〜18節
<昭和町キリスト教会 福田和広師> エリヤは神様から使命を頂いてアハブ王と対決しました。エリヤは勝利し、イスラエルの民は主こそ神であると応答しました。ところがそのことがアハブ王の妻イゼベルに知れたとき、イゼベルはエリヤ Continue Reading →
「喜びの祝宴への招待」マタイ22:1-14
<インマヌエル仙台教会 細田恒太郎師> 1、このたとえ話の主要なメッセージ このたとえ話の結論は前の21:43にあります。「あなた方」とはユダヤ人のこと、そして「神の国の実を結ぶ国民」とは外国人のこと。つまり神の国は、 Continue Reading →
「義に餓え渇くなら」
多くの人は夢が叶うことを「幸せ」と表現します。しかしながら、私たち人間の夢ははかなく、叶ったと思った先から崩れていくような脆く、はかないものであることが少なくありません。ここで語られる「幸い」とは自分で獲得するものでは Continue Reading →
「柔和な者になるには」マタイ5:3-5
心の貧しい者、悲しむ者、それは自分の内側に目を向けるものでしたが、柔和な者、それは他者との関係に関心が移ります。その対極にあるのは、力ずくの世界です。カインがアベルを殺したとき、「罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕 Continue Reading →
「心底悲しんでいますか」マタイ5:1-4
あなたにとってこれまで最も悲しかった出来事はどんなことでしょうか。 戦争の悲しみとは、単に命が失われたということだけではありません。その傷は多くの人に癒えることのない大きな悲しみをもたらしました。BC級戦犯。良心の咎 Continue Reading →
「天国に入るには」マタイ5:1-4
山上の説教、開口一番イエスは心の貧しい人は幸いです」言われます。世の教えは強い心、豊かな心、くじけない心。世の常識とは正反対の教えは何を意味するのでしょう。。 ルカの10章にはマルタとマリヤの姉妹の話が出てきます。マ Continue Reading →
「三つの招き」ヨハネ21:15-25
<李載華宣教師> ペテロはイエス様が十字架に掛かられる前に、自分がイエスの弟子だということを3回否定しました。復活のイエス様に再び会った時、ペテロはどんな心境だったでしょう。また、イエス様に3回「あなたは私を愛しますか Continue Reading →
「新しい天、新しい地」黙示録21:1-5,22:1-5
世の終わりの裁きの後、神は新しい天・新しい地を備えておられます。今、私たちに知らされているのは、1コリント13章にあるように、「鏡にぼんやり映るもの」です。その栄光は今の私たちには語られてもすべてを理解することなどでき Continue Reading →
「世の終わりのとき」黙示録20:1-15
私たちの世界には、どうしてこんなことが起こるんだろうか、どうしてこんなことが許されるのだろうか、善を行い、誠実に生きようとする者が苦しまなければならないのか。不公平ではないか。天災ならば受け入れざるを得ないにしても、人 Continue Reading →
「再び会う約束のとき」1テサロニケ4:13-18
人一人が亡くなるということ、それは私たちにとって大きなことです。宗教はそれぞれ様々な死生観を持っています。キリスト教、ユダヤ教、イスラム教は一神教で神の裁き。仏教とヒンドゥー教は輪廻転生。道教と神道は汎神論で生死にはっ Continue Reading →
「恵みの下に入れられた」ローマ6:1-14
「愛の不在」、それは私たちの関わるすべての問題の根です。高慢、利己心、臆病、それらを見て、人を責めても解決しません。むしろ受け入れること、愛の人に造り変えられることこそが大切ではないでしょうか。イースターの朝、もう一度 Continue Reading →
「ゲッセマネの祈り」マタイ26:36-46
受難週、その出来事を思い返してみましょう。ユダの裏切りからゲッセマネの祈り、逮捕やいなや弟子たちは散り散りになります。大祭司カヤパの元で深夜の裁判。夜が明けると総督ピラトにもとに引き出され、罪を認めないと判決をくだされ Continue Reading →
「時が良くても悪くても」2テモテ4:1-8
CIMの始まりはハドソン・テーラー。中国奥地伝道のパイオニアとして用いられた彼から始まるスピリットは、人知に頼らずして主に頼り、主が一切の必要を備えてご自身の働きを導いてくださることを信じるフェイス・ミッションです。そ Continue Reading →
「愛すること、仕えること」ヨハネ13:1-15, 34-35
最後の晩餐の席でイエスは弟子たちの足を洗います。足を洗うのはしもべの仕事。しかも夕食の間、わざわざ、イエス様はすでに洗った足を洗うのです。それはイエスが教えたへりくだって仕える模範、いやそれ以上の意味をもつ出来事でした Continue Reading →
「ともにパンを分け合おう」マタイ26:17-29
人にとって食べることと記憶、心に刻むことは不可分です。日本人も年中行事とともに食べることで季節や意味を覚えてきました。また、人が集まるところに食あり。交わりを表すものでもあります。一方で食べた食べない、美味しいまずい、 Continue Reading →
「バプテスマの恵み」コロサイ2:6-15
CIMの創設者、ハドソン・テーラーは中国の奥地への困難なパイオニア・ミッションに大きな苦労を強いられました。内線激しい中国で目の前に倒れて死んでいる人がいる。我が子も妻も病に倒れ、自身も病に伏し、肉体的にも精神的にも追 Continue Reading →
「聖書の教える結婚」創世記1:26,27,2:18-25
オスとメスではなく、男と女。人は結婚を制度だと考え、そのあり方は時代とともに変わってきました。ごく最近まで女性の立場は低く、同等とは考えられていませんでした。改めて聖書が教える性と結婚についてみことばに聞きましょう。 Continue Reading →
「霊と真をもって礼拝する」ローマ12:1-2、ヨハネ4:19-24
礼拝についてのみことばの中で、最も大切なのはこの箇所とマタイ28章の復活のイエスに出会った弟子たちの礼拝でしょう。そこでの礼拝はただ「ひれ伏す」ことでした。 「神のあわれみのゆえに」とは、「私たちの主キリスト・イエス Continue Reading →
「キリストのからだは一つ」エペソ4:1-6
教会とは何か?ひと言で言い表すなら、それはキリストのからだです。また神の家族です。しかもその家族は血縁・地縁によるのではなく、そこに加えられたのは恵みによることです。このことを理解するならば、私たちの問題のほとんどは解 Continue Reading →
「休ませて下さる方」マタイ11:28-30
國分広士師 録音データを聞く
「永遠のいのちは神とともに」ヨハネ14:1-14
人が死を迎えるとき、根本的な二つのことを問いかけられます。死は終わりなのか、もう一つは、自分のいのちの意味は何だったのかという問いです。 この箇所は最後の晩餐の席、「わたしが行く所に、あなたは今はついて来ることができ Continue Reading →
「あなたは高価で尊い」第一テモテ2:4-6
「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」のみことばはよく知られています。ところが、私たちは自分のことに置き換えてみないと、その愛の大きさがわからないものです。 ホセア書は自分の結婚を通して Continue Reading →
「私たちは変えられる」第二コリント3:6-18
喜びとはギリシャ語のカイロー、挨拶です。新約書簡それぞれの最後では、聖なる口づけをもって挨拶しなさいと勧められています。ところが、私たちの心には挨拶できない心、赦せぬ心や猜疑心、避ける思いなどが起こるものです。そのとき Continue Reading →
「誤りを認める勇気はどこから」ヨハネ16:7-15
アンデルセンの童話「裸の王様」は誰でも知っているでしょう。自分の姿がわからない人の愚かさを語った話です。人は聖霊が導くことなくして自分の罪の姿がわかりません。 聖霊は三位一体の一人格です。創造のみわざも救いのみわざも Continue Reading →
「喜び、祈り、感謝」第一テサロニケ5:16-18
新しい年、このみことばを掲げて歩みを始めます。喜びということばはギリシャ語ではカイロ―、挨拶、Greetingとも訳されます。私たちの心は挨拶に表れます。ですから処世術として人間関係は挨拶から始まるなどと言われるのです Continue Reading →
「三位一体の生ける神」マルコ14:32-42
三位一体の教理。それを告白することは、私たちの日々の信仰生活と結びついていなければ意味がありません。先に創世記1章の人の創造の箇所を読んでいただきましょう。ここには人が神のかたちに造られたと記されています。それを理解す Continue Reading →
「私だけが唯一の神」出エジプト20:2-6
八百万の神々の国日本に生きる私たち、日本の神は氏神、先祖の霊を祀ることがその始まりです。そして天照大神から始まる万世一系の皇族とその臣民は一つであるという教えです。それは仏教伝来とともに神仏習合しましたが、明治期、近代 Continue Reading →
「あなたの罪は赦された」マタイ9:1-8(久島神学生)
「子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦された。」友人の協力によって屋根の上からイエスさまの前につり降ろされた中風の人がいました。イエスさまは、その非常識と思われる行為の中に彼らの「信仰」を見られました。何より、言葉に Continue Reading →
「聖書は私たちの道標」第二テモテ3:14-17
神の霊感とは、「神の息が吹き込まれた」ことを意味します。それは「人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語った」(2ペテロ1:21)のです。 機会霊感説、自動筆記と呼ばれる Continue Reading →
「神のことばである聖書」ネヘミヤ8:1-12
「父から子どもたちへの29の手紙」という本があります。子どもの質問に答えるかたちで父の伝えたいことが書かれています。「このところ、やればやるほどうまくいかないんだけど、それはどうして?」あなただったらどのように答えるで Continue Reading →
「積極的な人生」ヨシュア14:6-15(峡南キリスト教会、横森剛牧師)
約束の地カナンに入ったイスラエルは領地分割を始めました。分割に先立って、ヨシュアと共に45年間イスラエル民族を率いてきたカレブは「どうか今、主があの日、約束されたこの山地を私にください」とヘブロンの地を要求しました。 Continue Reading →
「あなたのからだは聖霊の宮」第一コリント5:1-13, 6:12-20
「キリスト者の完全」という名著があります。英国リバイバルに用いられたウエスレーの説教集です。彼はその中で「キリスト者の完全とは、悪しき気質や愛に反するいかなるものも魂の内に残存していないこと。そしてすべての思いと言葉と Continue Reading →
「誤解と迫害と悩みと」使徒21:27-40
パウロは迫害を受けること、死の覚悟までしてエルサレムに来ました。そこでアジアからのユダヤ人はパウロが異邦人を宮に連れ込んだと思い込んで手をかけるのです。残念ながら真実は時間をかけて説明しても理解されるわけではありません Continue Reading →
「しなければならないこと、どうでもいいこと」使徒21:1-26
パウロは第三次伝道旅行の最後にエルサレムへ向かいます。ツロでは兄弟たちが、カイザリヤでは預言者アガボが捕らえられる預言をしてエルサレム行きをやめるようにと忠告をしますが、パウロは死をも覚悟の上どうしても行かなければなら Continue Reading →
「御霊に導かれて進もう」ガラテヤ5:13-26
私たちが救いをいただいたのは、「自由を与えられるため」です。最初の人アダムとエバは本当に自由でした。園の木の実を「思いのまま」食べ、互いの間は何一つ隠すこともなく、裸であっても恥ずかしくない「自由」がありました。それが Continue Reading →
「福音の望みをかみしめて」コロサイ1:9-23
一年の終わりに振り返ってみると、その時々で通り過ぎていった出来事も積み重なって神の恵みを覚えます。パウロがコロサイの教会に書き送った手紙を通して私たちに与えられている恵みに心を向けてみましょう。 パウロはエペソに滞在 Continue Reading →
「赦しは世界を変える」マタイ18:21-35
私たちのこの世界は「ありがとう、ごめんなさい、赦します」という三つのことばがあれば幸せに暮らせるはずです。しかし、私たち反対に「あたりまえ、そっちが悪い、顔も見たくない」などと平気で思い、あるいは言葉に態度に出してしま Continue Reading →
「やり直せないことなどありゃしない」ヨハネ11:1-44
ラザロが病気になり、使いが来ますが、イエスはなおそこに二日とどまります。そして「この病は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためだ」と言われます。イエスはユダヤで石打ちにあって殺されかけました。だからそこを避けてこ Continue Reading →
「こんなはずじゃなかったと思ったときに」マタイ7:13-29
私たちの身の周りには「こんなはずじゃなかった」と思うことが起こります。問われるのは、「あなたの立っているところがどこなのか」です。震災の時、隠れていたものが表にでました。見てくればかりのものは化けの皮が剥がれ落ちました Continue Reading →
「ルーツに帰れ。いのちの喜びはここから」ルカ15:1-24
男には5つの問題があるとは、私の恩師のことばです。お金のこと、それはどのように家族を養い生活するかという責任です。異性のこと、それは愛と絆を求める心です。プライドのこと、どこまでも男の価値観は「かっこいい」で、自らの存 Continue Reading →
「礼拝をささげる生活」ネヘミヤ10:32-39
ネヘミヤ記は捕囚から帰還した民がエルサレムの城壁を再建するストーリーです。ダビデの時代、国は祝福され、北はユーフラテス、南はエジプトの境までを従えました。しかしその繁栄もわずかな間で、国は傾き滅ぼされ、捕囚の憂き目に遭 Continue Reading →
「困難を分け合う」ピリピ4:8-23
ピリピの教会はマケドニヤ人の叫びを幻に聞いたパウロがマケドニヤで最初に伝道した結実として生まれた教会です。伝道の最初期からパウロが捕らえられ、町を去らなければならないところ、指導者を失い困難なスタートをした教会でした。 Continue Reading →
「神とともに生きる幸せ」ルカ9:10-25
この給食の奇跡はよく知られた出来事です。日暮れに大群衆。イエスは「あなたがたで、何か食べる物を上げなさい」と言われます。どだい無理な話です。何を求めておられるのでしょうか。 イエスは主の祈りを教えられたとき、日ごとの Continue Reading →
「それぞれの力に応じて」マタイ25:14-30
佐藤守著「うんこのできるまで」という子どもの絵本は、からだの仕組みを大変わかりやすく書いてある好著です。食べて出す。きわめて単純なからだの営みがきちんと営まれることは健康の秘訣です。同じようにキリストのからだである教会 Continue Reading →
「うわべでなく、心の中こそ」マルコ12:28-44
「マクドナルド化」と呼ばれる現象があります。徹底してマニュアル化した中を生きることを言います。そうすると、考える必要がなくなり、言われたままをすればいいのである意味楽です。またそれさえしていれば、自分の責任を果たしたつ Continue Reading →
「宝物は何ですか?」ルカ12:13-34
「本質における一致、行動における自由、あらゆることにおける信頼。」それは私たち人の交わりにおいて求められる真実です。その一致とは別のことばで言えば、あなたがたの交わりのおいて、宝だと考えるものは同じですかという問いです。 Continue Reading →
「受けるよりも与えるが幸い」使徒20:33-38
大切なことはいつもシンプルです。「受けるよりも与えるほうが幸い」という教えも実にシンプルです。ところが、私たちがそれを複雑にしてしまうのです。この主イエスのことばは福音書に直接書かれていませんが、主イエスがどのようにそ Continue Reading →
「閉会礼拝」コロサイ3:1-17 2012修養会4 松村 識師
録音データを聞く
「賜物によって生かされる」2012修養会3 藤本満師
賜物によって生かされる 録音データを聞く 1 ) 賜物は神の信頼 タラントのたとえマタイ2 5 : 1 4 – 3 1 2 ) 賜物を用いてくださるのは、イエスさま
「賜物は価値なき者に与えられる賜物」2サムエル9:1-13 2012修養会2 藤本満師
賜物は価値なき者に与えられる賜物( n o t e ) 一一死んだ犬も同然の私が、王の食卓に招かれる Ⅱ サムエル9 : 1 – 1 3 録音データを聞く 登場人物は、主に二人 ・自分のことを、8 節「死ん Continue Reading →
「賜物を喜べないサウル」1サムエル15:10-31 2012修養会1 藤本満師
賜物を喜べないサウル( n o t e ) 1サムエル15:10-31 録音データを聞く 序) 虎にしてネズミの心 1 7 節「あなたは、自分自身の目には取るに足らぬ者と映っているかもしれない。しかしあなたはイスラエルの Continue Reading →
『救い』へのそなえ マタイ19:16-22 福田和広師
●金持ちの青年(1)真剣だった。パリサイ人の目が光る中、自分を晒すことをも恐れずに永遠のいのちを求めてイエス様のところにやってきた。(2)正しく求めた。青年は「永遠のいのち」を求めた。パリサイ人たちのように表面的な正しさ Continue Reading →
「くしき恵みー信仰の土台」ルカ15:11-29、尾崎一夫師
恵みというのは聖書の中心、信仰の土台です。きれいなことばですが、私たちの人生を左右する、非常のパワフルな言葉で、聖書には繰り返して使われています。恵みと言えばアメージング・グレース。作者のジョン・ニュートンは神の恵みに Continue Reading →
「無からの有」創世記1:3-5, ヘブル11:1-3、溝口捷支師
神は何も存在しない無から創造なさるお方です。人は材料があって何かを作り出す英語で言えばMakeはできても、何もないところから創造Createすることはできないのです。 ヘブル1:1には「神はいろいろな方法で語られた」 Continue Reading →
「目をさまして歩む」使徒20:27-32
信仰の道を全うすることは、決して容易なことではありません。パウロはエペソの教会にこれから起こる様々な困難について二つの大きな警告を与えます。私たちの歩みには戦いがあるのです。 第一は「凶暴な狼」が群れを荒らし回ること Continue Reading →
「惜しみなく、走り尽くせ」使徒20:13-27
私たちには必ず「現役引退」というときがやってきます。仕事であれ家庭であれ、一生懸命に走っているときには考える暇もなく、いわば強いられた世界を走ります。そこから自由な時間を手に入れたとき、いのちの意味、存在の意味、英語で Continue Reading →
「交わりの喜び」使徒20:1-12
私たちは様々な人間関係の中に生きていますが、それは大きく3つあります。一つは血縁。それは選ぶことのできない関係です。二つ目に経済・労働共同体である職場。目的主導の関係です。三つ目は地域。それは都市を中心に崩壊しつつあり Continue Reading →
「偽りに踊らされ続けていいのですか?」使徒19:21-41
原子力はギリシャ神話から未来の火として「プロメテウスの火」と呼ばれてきました。それを事故の後、朝日新聞は「罠」と名付けて記事を連載しました。私たちの多くは、原発の危険性を聞きはしてきたものの、このような重大事故が起こる Continue Reading →
「自分をさらけ出すなら」使徒19:8-20
私たちは無意識のうちに、ありのままの自分の姿を見ず、避ける傾向にあります。イエス様が「兄弟の目の中にちりを見つけながら自分の目の中の梁に気付かない」と例えたように、人のことはあれこれとよく見えて批判しながら、自分のこと Continue Reading →
「人のつながりと拡がり」使徒18:22-19:7
使徒の働きの中では、「人」が活躍します。それを今日は見てみましょう。 この箇所の夫妻、プリスキラはローマ人でしたが、ユダヤ人であるアクラと結婚しました。元の名はプリスカ。貴族出身者であったようです。アクラがユダヤ人だ Continue Reading →
「宣教の主のみこころによって」使徒18:12-21
コリントの町でパウロはユダヤ人に迫害され、地方総督ガリオの前に訴えられます。彼らが委ねられていたのは礼拝の民として生きることで、その中心は「献げること」です。いけにえを通して献げることに招かれていましたが、彼らは次第に Continue Reading →
「腰を据えて」使徒18:1-11
コリントの町はアカヤ州第一の経済・政治の中心として栄えた人口約60万人という大都市でした。一方、その豊かな富は乱れを生みました。新宿歌舞伎町、札幌すすきのと同じような歓楽に乱れた町の代名詞でした。そして、それは教会・信 Continue Reading →
「すべての基である造り主なる神」使徒17:16-34
マケドニヤからアカヤのアテネに来たパウロは町が偶像でいっぱいなのを見て心に憤りを感じます。アテネは豊かなローマ社会がもたらした学問の町です。日柄、目新しいことを聞いたり話したりすることだけで過ごしている人がいました。紀 Continue Reading →
「みことばか感情か」使徒17:1-15
パウロたちは、ピリピからテサロニケへ場所を移して伝道を続けます。そこではユダヤ人の会堂で聖書に基づいて語ります。安息日の礼拝に続いて彼は人々と論じるのです。彼らのうちの幾人かは「よくわかった」とあります。このことばは「 Continue Reading →
「筋を通す生き方」使徒16:35-40
この箇所は聖書の中でも異色に感じられる出来事です。不当な扱いを受けたパウロが不服を申し立てます。ここに聖書は何を語ろうとしているのでしょうか。 ローマ帝国は法治国家でした。多民族、多宗教、多文化の国を一つにするのは容 Continue Reading →
「神の霊が臨んで」Ⅰサムエル19:18~24 佐々木弘幸師
ダビデは王として油注がれながらも、サウルに追われ、命の危機さえ何度も経験しました。その度に不思議な助けの道が与えられました。身の置き所のない逃亡生活を強いられたダビデは忍従の時期を耐え忍び、サウルへの復讐心からも聖めら Continue Reading →
「父の心を子に向けさせる日」マラキ4:1-6
イクメンということばが、よく使われるようになり、父親の育児参加が当たり前の世相です。わずかな世代間で父親の存在や役割についての考え方は大きく変わってきました。しかしながら、それでも深いところで父親の心のありようというも Continue Reading →
「家族そろって喜ぶ!」使徒16:25-34
マケドニヤ人の叫びを幻に見たパウロは神が導いていると確信して第一の町であるピリピに渡ります。占いの霊につかれた女奴隷から霊を追い出し、儲けを得ていた主人たちに迫害されてむち打たれ、牢につながれます。 牢の中でパウロと Continue Reading →
「新しい生き方がもたらす波紋」使徒16:11-24
マケドニヤ人の叫びは神の導きだと確信したパウロは、すぐさまマケドニヤに渡り、ピリピで伝道を始めます。今まではユダヤ人の会堂が拠点となりましたが、異邦人中心のこの町では祈り場がある川岸から始め、ルデヤとその家族が救われま Continue Reading →
「神のみが建て直すお方」エレミヤ33:1-16
エレミヤが監視の庭に閉じ込められていたとき、それはユダが滅ぼされる直前のことです。カルデヤ人が都エルサレムを包囲し、どうにもならない状況にあるときのことです。こんな時こそ、一致団結して敵と戦わなければならないと体制は動 Continue Reading →
「マケドニヤの叫び」使徒16:6-10
パウロの第二次伝道旅行、それは先の伝道旅行で生まれた教会を問安し、力づけることから始まりました。当時の東地中海世界ではアンテオケ、エジプトのアレキサンドリヤ、アジアのエペソが三大都市と呼ばれ、パウロは続いてアジアに福音 Continue Reading →
「働きをゆだねる」使徒13:1-3
使徒の働きはこの13章から積極的宣教へシフトし、「地の果てにまで私の証人となる」聖霊の御力の現れについて記しています。初代教会がみことばと交わり、パン裂きと祈りを使命として始まってからすでに15年ほど。異邦人が救われ、 Continue Reading →
「二つの死、二つのいのち」使徒12:1-25
私たち人間には必ず死が訪れ、またそれがいつであるのか誰にもわかりません。この章には2つの死がでてきます。それはいのちの生き方について私たちに問いかけているのではないでしょうか。 ヘロデ家には何代かの王がいます。最も成 Continue Reading →
「幼子のために祈れ」哀歌2:19(矢吹博師)
私たちの国は今、猛烈なスピードで高齢化が進んでいます。約1億2千万人の人口が50年後には8600万人、戦後の人口と同じ。しかも人口構成は逆ピラミッドです。教会の20年後、50年後にはどうなっているでしょうか。子どもたち Continue Reading →
「キリストのからだの器官として」Ⅰコリント12:18-27(伊東神学生)
パウロは、教会を「キリストのからだ」(27節)、キリストにつながる私たちをその器官と表現しています。一人ひとりは、一つのキリストのからだの各器官なのだとパウロは強調しているのです。そして、教会とは、みなの益のために(7 Continue Reading →
「力に応じて助け合う」使徒11:27-30
世界中に大ききんが起こり、困窮しているユダヤの兄弟たちに救援の物を送ったのがここにある出来事です。私たちにとっては震災がまさにそういう時でした。誰しもが助けになりたい、役に立ちたい、そう思い、大勢のボランティアが被災地 Continue Reading →
「私たちの宣教と主の御手」使徒11:19-26
迫害によって散らされた人たち・・・わかりやすいことばで言うと迫害難民です。彼らにとって衣食住、それは大変なことであったと思います。私たち人間はそのために争ったり、人を殺したりまでするのです。そのような危機を通るとき、本 Continue Reading →
「赦しが世界を変える」ヨハネ8:1-12
この箇所は元々ヨハネの福音書にはなく、挿入された可能性が大きいです。なぜでしょう。「赦し」というメッセージは私たちにとって極めて難しいものです。イエス様は7を70倍するまでと言いましたが、私たちは「でも、だって」と思い Continue Reading →
「救いは神から」イザヤ11章
新しい年が始まり、日々まっさらに新しく始めたい、そう願うところです。昨年、私たちは大震災を経験し、本当に大切なものは何か、ゆとりのあるときには覆い隠されているものが露わにされる経験をしました。この年の始めに心に留めたい Continue Reading →
「最もすぐれたもの、愛」1コリント13:1-13
「愛は近きより」。カトリックのシスター渡辺和子さんのことばですが、とても大切なことを言い当てています。最も身近な人を愛することができずに愛を語ることはできません。1コリント13章は愛の章としてよく知られた箇所です。そう Continue Reading →
「神は愛です」1ヨハネ4:7-21
愛ということばほど多く使われることばはないでしょう。しかし、愛は愛でも様々な意味に使われます。わかりやすく4つに分けてみましょう。 第一は「情」がつく愛です。同情、情愛。それらは心が自然と動かされて行動する愛です。一 Continue Reading →
「希望は愛によってのみ」ローマ5:1-11
私たち人間は希望がなければ生きていけません。もうだめだと思った瞬間、前へは進めなくなります。今年、私たちは多くを失いました。再建・復興にどのように希望を持てるでしょうか。「ふんばろう!ガンバロウ!」というかけ声だけでは Continue Reading →
「あなたは誰を信じますか」ルカ7:1-10
私たちは心のどこかで誰かが守ってくれる、どうにかしてくれるという漠然とした思いを持っています。しかし、それは本当に信じるに値するものでしょうか。沖縄のひめゆり学徒隊は有名な話しです。軍部が南部撤退を決め、軍民別なく避難 Continue Reading →
「鏡に映るもの」1列王記20:1-43
鏡が映し出すもの。それは自分の姿です。一方で心の中や思いをありのまま見ることはとても難しいことです。旧約聖書はイスラエルの歴史の中で起こった様々な営みを描いています。それは読む者が自分自身の鏡のように見るためではないで Continue Reading →
「船から出て、イエスのほうに」マタイ14:22-33(伊東神学生)
岸から4.5キロ、夜中の3時ごろ、周囲は暗闇、そして荒れ狂う波が渦巻く状況。最悪の湖上でイエス様は「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」と舟にいる弟子たちに声をかけられました。すると、ペテロが「主よ。もし、 Continue Reading →
「実を結ぶ人になろう!」マルコ4:1-20
4つの種のたとえ話はイエス様が話されたたとえ話のなかでもよく知られた話です。後から弟子たちにたとえの意味をお話になったように、道ばたに落ちた種のように耳を閉じることなく、岩地に落ちた種のようにうわべだけではなく、いばら Continue Reading →
「神の恵みをともに喜ぶ」使徒11:1-18
私たちのいのち、それは自ら進んで愛することを喜びとし、一つになるために造られたはずでした。ところが乗り越えられない壁がある。初代教会のキリスト者たちにとって最大の壁はユダヤ人と異邦人という壁でした。ペテロは夢の中に語ら Continue Reading →
「リバイバル」使徒10:24-48
初代教会は、一つ、また一つといままでの壁が打ち破られて前進が導かれました。この箇所ではペテロとコルネリオを通して主が異邦人との壁を取り払ってくださいました。その一つ一つのできごとを確認すると、聖霊がお下りになったという Continue Reading →
「本当にそうですか」使徒10:1-23
「使徒の働き」を読み解く鍵は、1:8の「エルサレム、ユダヤ、サマリヤの全土、および地の果てまで」及ぶ聖霊なる神の働きです。その中で、地の果てまでというとき、その先駆けがこのコルネリオの救いです。 ノアの洪水の前、神は Continue Reading →
「悲しみを乗り越えるために」使徒9:32-43
一人の若い医師が、小さな子どもがの死を看取って、ただ泣いたことに家族が慰められたという話しを読みました。友人が女川町で津波の跡を訪れ、思いをことばにできず、ただ涙が止まらなかったと言います。悲しみはどのようにして乗り越 Continue Reading →
「しもべの賛歌」マタイ20:1-16
私は北海道で20年前暮らしてきました。北海道は農業王国です。その農業技術は格段に進歩しました。そこから考えると、この農家の主人はダメです。農家にとって一番大切なのは作物であり効率よい収量のはずですが、彼にとって収量は関 Continue Reading →
「人を受け入れ、励まし、育てる」使徒9:20-31
サウロはダマスコの途上で主に打たれ、劇的な回心をします。しかし、熱心な迫害者であった彼が簡単に皆に受け入れられたわけではありません。ダマスコではアナニヤが特別な導きによりそれをなし、また、ダマスコを追われた後のエルサレ Continue Reading →
「主が成し遂げてくださる」1歴代誌28:20 佐々木弘幸師(峡南キリスト教会)
峡南キリスト教会は、様々な経緯を経て、24坪、1200万円の教会堂を献堂しました。今それを振り返って主が成し遂げてくださったと心から感謝します。私たちが教会堂の建築を始めたとき、必要は満たされていませんでした。しかし、 Continue Reading →
「最も大事なこと」1コリント15:3-8、後藤茂光師
かつて「キリストの処女降誕はウソ。キリストの復活はウソ。始めと終りがウソだから真ん中もウソ。聖書の言っていることは全部ウソ」と言われたり、「まさか、あなたは真面目に、キリストが甦ったなどとは信じておられないでしょうね」 Continue Reading →
「目からうろこ」使徒9:1-19
私たちはそこに真実があろうとも、心の目に覆いがかかっていてわからないことがあるものです。震災後、その対応を巡ってあきれた対応をした人たちがいました。そして残念ながらいまだそのままです。人が生きるか死ぬかというときに、自 Continue Reading →
「みことばを通して救いに」使徒8:26-40
ピリポはエチオピアの宦官を救いに導きました。「主の使いが、御霊が」とあります。それは、後から振り返ってそのように導かれたのだということを彼らが確信したのではないでしょうか。私たちは自分たちの足跡を振り返って、その時、そ Continue Reading →
「お金で買えないもの」使徒8:14-25
「原発マネー」ということばの意味がどれだけわかっているでしょうか。高度経済成長期、その成長から取り残された貧しい農漁村が舞台となりました。様々な人の動機が色・欲・カネと言われますが、それは共通して「思い通りにことを動か Continue Reading →
「八方塞がりに見えても」使徒8:1-13
ステパノの殉教から激しい迫害がエルサレムの教会を席巻し、使徒たち以外の者たちは街を追われます。いわば迫害難民です。住むところを追われ、仕事をなくし、生活の基盤を失い、今後の先行きも見えないような中、明日の食べ物、生きる Continue Reading →
「責められても」使徒6:8-7:60
教会は前進するととともに様々な問題に直面しなければならなくなりました。ステパノが用いられれば用いられるほど、イエスがそうであったように妬まれ迫害されます。とうとうそれが襲って捕らえ、偽りの証人によって議会に連れ出される Continue Reading →
「私の役割は?」使徒6:1-7
「生きることは食べること」です。しかも毎日毎食、私たちの生活に密着しています。それはまた、単に体のことにとどまらず、心や霊を含めた全生活に関わることです。物心をともにする初代教会の群れは男だけで五千人、その中で食べるこ Continue Reading →
「主の足もとにすわって、みことばに聞く」ルカ10:38-42(伊藤神学生)
姉マルタは喜んでイエス様を家にお迎えしました。妹マリヤは、自らの意志により「主の足もとに座った」のです。一方のマルタは、私は一生懸命に仕えているのに…と、妹に対するねたみが心の中に起き、主に対する不満ともなり現れてきま Continue Reading →
「神は愛なり」ヨハネ3:16
今日は洗礼式を迎え、新しいいのちの出発をする姉とともに、私たちがいただいている福音をもう一度確認したいと思うのです。 「神は」と言われるお方は、この世界を造り、私たち一人一人をこの世に生かしてくださるお方です。私たち Continue Reading →
「道は必ず開ける」使徒5:12-42
「非常時」、私たちはいままでやってきたようにしかできませんし、やってきたことがはっきりします。隠れいていたもの、わからなかったこと、見えなかったことに向き合わざるを得なくなるからです。自分の努力や願いで進むことが困難に Continue Reading →
「ホントの動機は何ですか?」使徒4:32-5:11
初代教会の交わりは、物心ともに支え合ういわば天国の先駆けのようでした。バルナバ(慰めの子)という名で知られるヨセフも畑を売り献げます。彼がそのように呼ばれるようになったのは、この後の彼の活躍からも窺い知ることができます Continue Reading →
「恐れはいらない、必要なのは勇気」使徒4:23-31
美しの門でのいやしの後、捕らえられたペテロとヨハネは祭司長、長老たちに脅されながらも「見たこと、聞いたことを話さないわけにはいきません」とのことばを残して釈放されます。彼らは仲間にことの次第を報告します。そのときに一同 Continue Reading →
「この方以外に救いはない」使徒4:1-22
私たち人間というものは保守的なもので、変化を望みません。昨日のように今日、今日の続きに明日があるように生きています。ユダヤ人たちは彼らのしきたりを続けたわけですが、そこに新しい教えが入ってきました。男だけで5千人、ただ Continue Reading →
「子育てのゴールは子別れ」
小さないのちを守る会 水谷潔師 午前の礼拝に続いて、午後に行われた講演です。 録音データを聞く
「教育パパのススメ」エペソ6:1-4
小さないのちを守る会 水谷潔師 今日はこの箇所が問いかけているメッセージを3つの点から聞きましょう。第一に「父たちよ」と呼びかけられています。それは使命感、意識が乏しい父親が明確な転換をしなければならない迫りです。日本 Continue Reading →
「悔い改めよ!」使徒3:11-26
美しの門でのいやしに驚いた人々がペテロとヨハネの周りに集まってきました。いやしは、「自分の力とか信仰深さ」によってではなく、「イエスの御名」によることをペテロはあかししました。復活からペンテコステまで50日、それから数 Continue Reading →
「心の一新によって」ローマ12:1-2、三浦春寿宣教師
クリスチャンの具体的な生き方について、その第一は自分自身を「神に受け入れられる聖い生きた供え物としてささげること」、第二は「心の一新によって自分を変える」ことが教えられています。ことばは簡単ですが、私たちは律法的になり Continue Reading →
「不信仰なアブラハム」創世記11:27-12:9(福田和広師)
アブラハムは信仰の父です。ヘブル11章によればそれは明らかです。しかし、聖書をみると、アブラハムはとても不信仰であることがわかります。 彼はカナンに導かれたときも途中で留まってしまいます。エジプトに避難したときは妻サ Continue Reading →
「権威はここにある」使徒3:1-10
初代教会には主に対する恐れがありました。それは主の権威に対する恐れです。そしてその権威ゆえの不思議としるしがなされたのです。この箇所はその実例です。 彼らの礼拝の場は宮でした。生まれつきの足のなえた人がその門の前に施 Continue Reading →
「喜びの共有」使徒2:43-47
初代教会が非常に生き生きと喜びに溢れていた様子がここには描かれています。その秘訣は何だったでしょうか。 第一は主への恐れです。それは人が主を本来おられるべき場所に置くことであり、主の権威と深く結びついています。ローマ Continue Reading →
「母を敬う」エペソ6:1-3
「母」を語れば、それぞれにたくさんの思い出があることでしょう。母の心は、いつでも子どもを思う思いであり、いくつになっても、年老いたとしても、天に帰るその日まで母であり続けるのです。聖書の教える母、親について考えましょう Continue Reading →
「教会の使命iv-祈り」使徒2:42
今、なすすべがない現実に「祈り」ということばが聞かれます。初代教会は祈りに専心していました。私たちは信仰をもって祈るとき、誰に、いつ、何を、どのように祈るのかをもう一度確認したいのです。 エペソ3:14-19のパウロ Continue Reading →
「新しいいのちに生きる」第二コリント5:14-19
私たち人間は、「得る」ことから学ぶことは少なく、「失う」経験をして「得る」ことがたくさんあります。受難はまさに「失う」できごとです。一方、神の賜る救いについて5つのステップを確認しましょう。 第一に、私たちのいのちは Continue Reading →
「教会の使命III-パン裂き」使徒2:42
交わりを指すコイノニアの意味には共有することにあるということを既に学びました。またこの語は同業組合、同好仲間などに使われることばでもありました。聖書で使われることばは、既存のことばに新たな意味を持たせる場合が少なくあり Continue Reading →
「教会の使命II交わりに生きる」使徒2:42
教会とは何でしょうか?多くの人にとっては建物を指す場合が少なくありません。しかし、教会は何より人です。キリストによって呼び集められた人なのです。人が集まるところには様々な関係が生まれます。この「交わり」とは何を意味する Continue Reading →
「今問われる一致」エペソ4:1-6
今、私たちは教会内外からも、一致団結してこの難局を乗り越えなければという流れの中に置かれています。一方で、その一致の土台がどこにあるのかということを改めて問わなければなりません。いままで、なにげなく過ごしてきたことが吟 Continue Reading →
「それぞれの立場を尊重しよう」ローマ14:1-12
私たちのキリスト者の行動原理は常に、十字架で命を捨ててくださったキリストの愛に基づいているかです。ところが、目の前にあることにそれが生きているかというと、それとはほど遠いことが少なくありません。 ここで食べ物のこと、 Continue Reading →
「教会の使命〜喜び悲しみをともに〜」ローマ12:15
地震以来、相次ぐニュースに私たちは心を痛め、主の御手の中にあることがわかりながらも、「主よ。なぜですか。主よ。どうしてですか。」と問いかける日が続いています。 私たちがその中で聞かなければならないみことばがこの一節で Continue Reading →
「教会の使命II-交わる」使徒2:42
録音データを聞く
「教会の使命I-教えに生きる」使徒2:42
録音データを聞く
「福音の中心」使徒2:22-36
ペンテコステの不思議なしるしに人々が集まってきました。この日はイエスの十字架、復活からわずか50日しか経っていません。いまだ町中はイエスのうわさでもちきりだったでしょう。ペテロはここで主イエスのみわざ、十字架と復活の意 Continue Reading →
「神の力の現れ」使徒2:1-21
私たちの意志決定の多くは理屈で説明しきれないこと、理性だけではなく感情で決めることが少なくありません。それは人は霊肉、また理性も感情も持った存在だからです。神を知る、交わるというときにも、理屈で理解したということだけで Continue Reading →
「信仰を継承するために」使徒1:12-26
ユダの裏切りは聖書の中でも異彩です。弟子たちは皆イエスに大きな期待を持っていました。復活の後にも「今こそ、国を再興してくださるのですか」とイエスに尋ねます。目に見える救いを彼らは求めていたのです。変貌の出来事の後からイ Continue Reading →
「再臨の約束」使徒1:8-11
クリスマスやイースター、ペンテコステ、降誕、復活、聖霊降臨に比べて昇天・再臨を意識することはあまり多くないかもしれません。教会歴の中では昇天日や公現日、受難週などをしてイエスのみわざを一つ一つ生活の中に溶け込む工夫もな Continue Reading →
「聖霊の約束とイエスの昇天」使徒1:1-9
復活の主イエスに弟子たちは「いつ国を再興してくださるのですか」と問いかけます。彼らの期待はいわば「私の救い、私たちの救い」というレベルです。イエスの答えは目に見えるこの世の国の再興ではなく、聖霊の御力によって「地の果て Continue Reading →
「天での礼拝、顔と顔を合わせて」黙示録22:1-7
代価を払って買い取られた私たちに求められていることは、恵みに応える礼拝です。その礼拝の本質は心から喜んでみこころにかなう生き方をすることであり、そのゴールは天での礼拝です。世界がどこに向かっているのかという聖書の世界観 Continue Reading →
「心の一新によって」ローマ12:1-2
ローマ書の中では、私たちを代価を払って買い取られた神の愛がどれほどのものであるのかが11章までで語られています。12章からは私たちがその応答としてどのように生きるかが具体的に奨められています。その始めに語られる原則がこ Continue Reading →
「真の礼拝者」ヨハネ4:1-26
サマリヤの女、彼女にはどうしても満たされない渇きがありました。対話の中にイエスは真の礼拝とは何かを教えておられます。井戸で水をお求めになったイエスは彼女に「生ける水」をお与えになると言われるのです。 彼女の渇きは相手 Continue Reading →
「すべては神の栄光のために」1コリント6:19-20
新しい年を迎え、心新たにこのみことばを掲げて前進したいと願っています。このみことばはコリントの教会の問題に対してパウロが書き送った一部です。コリントの教会には大きく3つの問題がありました。そこから私たちも「ささげる」歩 Continue Reading →