ダビデは誰よりもイスラエルの王として主の祝福をいただく信仰の人でした。それが彼の表の顔ですが、影の部分があるのです。彼は王権が確立すると周辺諸国の王のように多くの妻と側女を召し入れます。それが諸王のステータスでした。しかし、一方でそれは罪のハードルを低くししました。そして、引き起こした問題の刈り取りをしなければならなくなったのです。
ダビデの息子アムノンは異母兄妹のタマルに恋をします。そして友人ヨナタブの悪知恵によって彼女を辱めます。ダビデは激しく怒りますが何もしません。いやできなかったのでしょう。自らの罪を棚に置いてでは、何の威厳もありません。タマルの兄アブシャロムは復讐の機会を狙い、宴会に招いたアムノンが酔ったところを襲い殺します。都を追われた彼はやがて将軍ヨアブの手引きで再び呼び戻されますが、生殺しにされます。それはやがて父ダビデへの謀反となったのです。
都を追われたダビデとともに祭司ツァドクが神のご臨在のしるしとして神の箱を持ち出すのですが、ダビデはこう言うのです。「もし私が主の恵みをいただくことができれば、主は、私を連れ戻し、神の箱とその住まいを見させてくださるだろう。もし主が『あなたはわたしの心にかなわない』と言われるなら、どうか、主が良いと思われることをこの私にしてくださるように。」ことをどうにかしようともがくのではなく、主に委ねるのです。結果、再び都に戻る日がやってきます。
私たちもまたどうにもならないこと、ままならないことを自ら抱えます。それは自ら刈り取らなければならないことゆえということもありましょう。ダビデが主に委ねたなら、なおのこと、罪人、取税人、遊女の友であられたイエス様は、私たちの傍らにも共におられるのです。それこそ私たちの慰め、私たちの力です。そして、主の最善を知らせてくださる御手に委ね祈ることが私たちの幸いなのです。