世界で最初に服を着たのはアダムとエバです。彼らは自分たちの罪を隠すためにイチジクの葉を綴り合わせた腰の覆いを身にまといました。裸の私たちが恥ずかしいのは素の罪の姿が露わになるからです。神さまが着せてくださったのは皮の衣。それはいのちの犠牲、血を流してこそ私たちの罪を覆うものでした。また、服はその人の生き方を表すものです。何を着て、どのように生きるべきでしょうか。
「神に選ばれた者、聖なる者、愛されている者」、これはキリスト者の自己理解、私はどのような者であるのかということをもう一度思い起こすようにとパウロが語った言葉です。選ばれるにふさわしい何かがあったわけではない。ただ恵みによって選ばれました。そして、十字架の血潮で聖めてくださったのです。そのように愛してくださった。イエス様がバプテスマをお受けになったとき、「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜び」と天から声がしました。それと同じように、私たちもバプテスマによって古い人が死に、新しい愛されている人に生まれました。
ですから、着るべき新しい人はどのような人なのかが教えられています。「深い慈愛の心、親切、謙遜、柔和、寛容を着なさい。」そして忍耐と赦し。キリストが赦してくださったように赦し、そして、愛の帯を結びなさいと言うのです。一言で言うならば、キリストを着るのです。
私たちは、朝、起きたら服を着て身支度を調えるように、日々新たに、キリストを着て、愛の帯を締め直して一日を始めるのです。今日、何を着るか。オシャレに気を配るよりも何よりも、朝始める度に、私は何者か、「神に選ばれた者、聖なる者、愛されている者」と心新たにし、キリストを着て生きることを子どもたちとともにしていこうではありませんか。そのように始めるところに必ず天からの豊かな祝福があるのです。