「彼は幸せな晩年を過ごし、齢も富も誉れも満ち足りて死んだ。」これがダビデの生涯を総括することばです。私たちも地上の生涯を終えて天に帰る日がやってきます。その最期のときをどう生きるべきでしょうか。
ダビデは晩年、神殿建設のための準備を整えて息子ソロモンに委ねます。それは単に神殿建設にとどまらず、礼拝のためにレビ人を組織します。主の宮の奉仕、歌歌い、門衛などを集め、また、軍隊を組織します。王の財産の管理、そして、民を導いて建設資材をささげます。それはすべて国の王として主の民を整えるためのものでした。
そして、最期に献げた祈りがこの箇所です。それは、主の祈りに非常によく似ています。主の祈りはその言葉の通りに祈ることに意味があり、また、その言葉の内容を祈ることにも大きな意味があります。ダビデは旧約の人物ですから、主の祈りを教えられる前のこと。しかし、その内容を網羅する祈りがここになされているのです。そしてそれは、彼のこれまでの生涯と重ね合わせるとき、改めて私たちにとっても大きな意味を持ちます。
とりわけ、「わが神よ。あなたは心を試される方で、真っ直ぐなことを愛されるのを私はよく知っています。」という祈りはダビデが心深く探られる経験を通ったことと重ねることができるでしょう。「罪が罪としてわからない」バテシェバ事件、高ぶりゆえの人口調査、息子の謀反。みな、試みの中に探られたことでした。また、「試みにあわせないで…」は、自分のことではなく、次に続く世代の民たちへのとりなしです。彼にとって最期の祈りに残ったのは、自らの心の精算を主にあってなし、残していく次のものたちへ委ね、そこに主の祝福を願う祈りでした。
私たちも主の前への祈りをもって最期をダビデのように迎えたいものです。