アディアフォラとは?

 アディアフォラ?聞き慣れないことばですね。聖書によって明確に命じられても、禁じられてもいないことで、個々の信仰者の良心と判断に委ねられている事柄をそう呼びます。元々は、ストア派の哲学者たちによって形成された概念で、善でも、悪でもなく、命じられてもおらず、禁じられてもいないことを指すことばでした。それが後にキリスト教の概念としても議論されるようになりました。

 とりわけ宗教改革者ルターは、これまでの教会のしていた伝統や習慣の多くが単なる儀式にすぎない「どちらでもいいこと・どうでもよいこと」とこのことばを使いました。彼はすべての基準は「聖書のみ」という、キリスト者の立ち帰るべき原点を示したのです。かといって、無秩序にどんなことでもアディアフォラであっていいわけではありません。

 「すべてのことが許されている」と言いますが、すべてのことが益になるわけではありません。「すべてのことが許されている」と言いますが、すべてのことが人を育てるとはかぎりません。(1コリント10:23)というのが聖書の基準です。そもそも、いいか、悪いかが基準ではなく、愛が基準となるべきなのです。

 さて、もう一つ、覚えておきたいことは、「信仰告白の事態」という言葉です。私たちの信仰告白、つまり、主イエスだけが唯一まことの神であられることを告白することの妨げが起こるような事態をそう言います。ナチス下のドイツ、国体を第一とする戦時中の日本、そこでは、そのような事態が起こりました。黙示録には世の終わりに迫害や困難な時代がやってくることが預言されています。そして、それは歴史の中で何度も起こっていたのです。そのときに、「熱くもなく、冷たくもない」、いいかげんな信仰ではたちまち吹き飛ばされてしまうようなことが起こったし、起こるのです。目を覚まして、見分けることが求められているのです。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です