カインとアベルから人に二つの流れが生まれます。信仰によって神に従う流れと神から離れる流れです。罪ある人に神は皮の衣を着せてくださいました。いのちの犠牲をして罪を覆い、神とともに生きる道です。カインのささげたものは地の作物。そこにはいのちの犠牲もなければ、心も伴っていませんでした。それで彼のささげものは受け入れられなかったのです。
神は声を掛け、「罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである」と問いかけますが、その声に耳を閉ざして、彼はアベルを殺します。「思い通りにならない。面白くない。あいつさえいなければ。」それが罪の原理です。彼はノデの地(さまよい、さすらう)に住み、彼の子孫であるレメクは二人の妻を娶り、産まれた子たちは天幕と家畜(富)、竪琴と笛を奏でる(芸)、青銅と鉄(産業と武器)、ナアマ(快楽)とを求めるようになります。世の常です。
一方、神はアベルに代わりセツを与え、人は「主の名を呼ぶ(祈る)ことを始めました。アダムが神の似姿に造られ、その似姿にセツが造られたというのは、神から離れたカインの流れではなく、新たに神に従う流れを与えたということです。しかし神の子=神に従う流れと人の子=神に従わない者たちは混じり合い、罪に傾き、暴虐に満ちた世をご覧になった主は心を痛め、悔やみ、残念に思い、大洪水をもって裁かれることをお決めになりました。
しかし、神は救いの道を備えてくださいました。ノアです。神が大洪水をもって裁きをなさる。救われる道は箱船だと信じたのです。信じたと言っても、どうやって巨大な箱船を造ったでしょうか。すべてを投げ打って、最高の技術の粋を集めて建造したでしょう。周りの人たちにも呼びかけたでしょう。それは、「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。」(1コリント1:18)と同じなのです。