パウロはここに、厳しいことばで問いかけをします。「あぁ、愚かなガラテヤ人」、英語では一様にfoolishと訳され、砕けて言うなら、「バカな、わからずや」です。『バカの壁』という本がベストセラーになりました。人は見たいものしか見ず、知りたくないことには耳を貸さないという意味です。私たちは様々な情報を取捨選択しますが、新しく生まれたはずなのに、古い生き方に逆戻りし、それがわからなくなるのです。
それは、律法主義、行い主義、「してはならない、しなければならない」という行いと努力の世界です。もちろん、信仰は行いを生み出します。しかし、信仰から始まって行いで完成させるものが入り込んでくるのです。その第一しるしは、自分を責めて、救いの喜びを奪います。まだダメだ。まだ足りない。もっと頑張って、もっと努力して。そういう思いに駆り立てます。第二のしるしは、人をさばくことです。人と比較して自分がさも正しいかのように誇り、自己満足するのです。
あれほどの経験をして、まだわからないのかと問われます。ガラテヤの諸教会の始まりは使徒14章に出てきます。いやしのしるしが行われ、一方で大きな迫害がありました。すべてが御霊の導きによる経験でした。そこには、自分たちの行いや努力、そのようなものの入る余地などない経験だったはずでした。
大切なことは十字架の主イエス様を見上げることです。罪に囚われていた私たちが十字架の贖いを通して赦された。それが「掲げられた」というのは、ちょうど裁判の判決が降り「勝利!解放!」という幕が掲げられた様子と同じです。それは一方的な神の愛、キリストの十字架のゆえです。それによって赦され解放された。ならば、それに応えて生きよう。それが私たちが立つべきところです。それを見えなくするバカの壁はないか、いつもここに立ち返ろうではありませんか。