主の祈りの最後、私たちが誰のため、何のために生きているのかを問いかけられる祈りのことばです。この部分、注には最古の写本には欠けているとあります。聖書が書かれた時代、他にも類似の書物がいくつも書かれました。聖書とされるには、使徒が書いた、書かせたものであり、どこででも神のことばとして普遍性を持つものが、摂理のうちに教会による吟味を加えられたのです。
そのうち最古の写本にないにもかかわらず残ってきたということは、初代教会から主の祈りの一部として祈られてきたものであり、それを取り除こうとすることがなかった。つまり応答として祈るのに、実にふさわしいことだったからでしょう。国と力と栄え、学んだことを確認しましょう。
国。それは神の支配と権威の及ぶところ。王の王、主の主は唯一人、私たちは世にあって世のものではなく、神の国のものです。我が心を支配し導かれることを求めることから始まって、宣教によって神の国が拡大するように祈るべきであることを学びました。
力。「あぁ、なんと力のないことか」と思う私たち、「主我を愛す、主は強ければ我弱くとも恐れはあらじ」と歌うように、どんな大きな力が私たちを翻弄しようとも、あなたにこそ力ありと賛美献げるのです。
栄え。弟子たちの求めが常に自らの栄え、誰が一番偉いのかであったように、私たちも同じです。しかし、ここに私たちは栄えは主のものと賛美します。最後の晩餐で弟子たちの足を洗い、十字架でいのちをお捨てになった。しかし、すべての罪と死を討ち滅ぼしてよみがえられたお方にこそ、栄えがあるようにと讃えるのです。ここにこそ、私たちのいのちの向かう先、あなたのために生きますと献げる献身をもって、祈りを閉じるのです。