よく知られた4つの種まきのたとえ、私たち日本人の感覚からすると、ちょっと雑なやり方に違和感があります。そもそも道端、岩地、茨の中に種を蒔いたりしません。ミレーの種まきの絵のように、「ざぁっ」と種を蒔き、それから耕しというところもあるわけです。それぞれについてイエスが解説をしていますが、さらにわかりやすく言えば次のようになるでしょう。
道ばたに蒔かれた種。それは、「そこにいることはいるけど、聞いちゃいない」そういう人のことです。うわの空なのです。岩地に蒔かれた種。「うん、うん、そう、そう、と言いながらも、それに生きようとか、自分を変えようとか、しない人」のことです。茨の中に蒔かれる種。それは、「わかっちゃいるけれど、やめられない。わかっちゃいるけれどしない」そういう人のことです。大切なのは自らの心を耕してみことばを聞くということです。
さて、私たちが問われるのは、それではそのようにして自分は実を結んできただろうかということです。12年前、教会の50周年記念礼拝で「実を結ぶ教会」というテーマで4つの実を結ぼうとお話をしました。悔い改めの実として、赦し赦される、和解と回復をしていくことです。成長の実、ガラテヤ書にある御霊の実、キリストに似る者に成長することです。交わりの実、教会が愛のうちに一致を導かれることです。宣教の実、救いの先駆けである私たちをして、最も親しい家族から世界に至るまで。
振り返ってみるならば、自分が良い地に自らを耕し続け、実を結んで来たでしょうか。これは真に問わなければならないことです。そして、もし、思い新たにするならば、今日でも遅くはありません。み声を聞いたなら、祈りとともに、主の御前に良い地に耕し続けますと新たにしましょう。