「子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦された。」友人の協力によって屋根の上からイエスさまの前につり降ろされた中風の人がいました。イエスさまは、その非常識と思われる行為の中に彼らの「信仰」を見られました。何より、言葉にはされていなかった中風の人の心をご覧になり「あなたの罪は赦された」と真っ先に言ってくださったのです。
一方、律法学者の心のつぶやきもご覧になりました。「この人はなぜ、あんなことを言うのか。神をけがしているのだ。神おひとりのほか、だれが罪を赦すことができよう。」罪を赦すと言われたイエスさまを彼らは信じようとはしませんでした。その原因はイエスさまに対する妬みであり、救い主の証を明らかにされていたにも関わらず、彼らは認めようとはしませんでした。
旧約聖書には、体を癒す力を神様から与えられた預言者が出てきます。イエスさまと同じように死者をよみがえらせた預言者さえいました。しかし、「罪を赦す」権威を与えられた者は誰もいませんでした。その権威を持つのはイエスさまだけであると宣言しています。私たちは、心に赦されていない罪を自覚しているならば、どんなに楽しい事をしたり気を紛らわそうが、結局は罪悪感に戻って来てしまいます。指先に小さなトゲがささったら抜かない限り痛みが続くものです。罪もイエスさまに赦して頂かない限り、私たちの心は、いつまでも騒いだままになってしまいます。主に告白し、赦された時に、私たちは解放、自由、平安が主から与えられるのです。
私たちは、罪を赦す権威を持っておられる方に、すでに赦されているでしょうか?その確信をもって、イエスさまを見つめ、歩んでいきましょう。