「いのちの危機に瀕したとき」使徒27:27-44

 パウロのローマへの護送。その途上の難船した船の中、そこには船長や航海士、水夫、それに同船した百人隊長と兵士、そして囚人たち。みな呉越同舟です。ところが戦うべくもなく、「助かる最後の望みも絶たれようとしていた」という状況に置かれましたが、その状況が変わります。

 夜の暗やみの中、陸が近づき、水深が浅くなると希望の灯がともります。錨を降ろして夜が明けるのを待ちますが、水夫たちは自分たちだけ助かろうと小舟を出します。私たち人間は実に弱いもので、いのちの危機に瀕するような極限のところに置かれるとエゴと罪が表れるのです。津波の後の避難所の生活にそのようなことを聞き、人間の醜さを垣間見ました。普段は繕っていても、本当の姿は自分勝手な罪人なのです。

 戦争中、日本軍の占領下にあったクワイ河収容所で起こった出来事をアーネスト・ゴードンが記録しています。「神は私たちに隣人を造ったが、敵を作るのは人間です」と彼は言います。過酷な労働と劣悪な環境の中、敵軍だけではない、仲間さえも見棄て、誰も信じられなくなるような中、仲間のためにいのちを捨てる犠牲的な愛の行為が彼らを変えます。いままで知っていたが生きていなかったキリストの愛が彼らに迫り、それが極限の彼らの中に希望を与えるのです。

 この船の中でも一介の囚人であるパウロが船のキーマンになります。立場も何もない彼ですが、主にある希望が彼を用いるのです。そう、私たちは「地の塩、世の光」です。パウロが用いられたように、主は私たちをも、それぞれの生きる場で用いようとしてくださっているのです。それはこのような場だけではありません。日々の小さな営みの中に、「地の塩、世の光」として歩みましょう。

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