マルコ8章はこの福音書の折り返し地点です。「まだ悟らないのか」と問いかけ、「私は誰か」という問いと前後しながら、一対のいやしの出来事が記録されています。それが、目の見えない人の目が開けられるいやしであり、7章の終わりにでてきた耳が聞こえず、口のきけない人の耳が開かれたいやしです。
ベツサイダで目の見えない人がいやされます。イエスは村の外にその人を連れ出して、いやしをなさいます。人目を避けたのは、人々がいやしだけを求めるようになるからです。人間というものは即物的です。多くの事柄や先々のこと、物事の本質を見極めることよりも、目先のことしか見えなくなるものです。
ここではからだの目ですが、もっと大切なのは私たちの心と霊の目が開かれることです。私たちの心と霊の目が開かれていないと、今、そこにありながらも見えないこと、聞こえないことがあるからです。2列王記6章には、敵に囲まれたエリシャの従者の目が開かれると、火の馬と戦車、神の軍が取り巻いて山に満ちているのを見ました。「恐れるな。私たちとともにいる者は、彼らとともにいる者よりも多いのだから」との励まし。これが神を信じる者の霊的現実です。イエスが見せて来られたのはこの霊的現実です。それをなさる方が誰なのか、「まだ悟らないのか」と問うておられるのです。
目が開かれる、それは最初は薄らぼんやり、そして、はっきりと見えるようになりました。それは1コリント13章で、「鏡に映るもの」から「顔と顔とを合わせる」ときと同じです。地上にいる私たちは、この世にあってはいまだ未完成です。しかし、やがて救いの完成をいただくのです。そして、いつまでも残るもの、信仰と希望と愛、その永遠に価値あるものに目を開かれて生きることが問われています。主よ。御霊によって目を開いて、キリストが下さる勝利の恵みを見て、望みにあふれて生きる者とさせてくださいと祈ろうではありませんか。