「すべてをささげる」レビ記1:1-17

 エジプトで奴隷であったイスラエルの民は神の輝かしい救いのみわざによって自由の民となりました。彼らが神を礼拝する民として生きるために与えられたのが律法と幕屋での礼拝です。それを繰り返す中で、彼らは神の民として整えられていくのです。

 レビ記は出エジプト記の続編です。そこで礼拝について神は教えます。その中心は幕屋でのささげものです。全焼のささげものというのは、文字通り、すべてを焼いて煙にします。牛、羊、山羊、あるいは鳩をすべて焼いて煙にする。もったいない!と思うのです。彼らの家畜、それは一頭一頭名をつけて呼ぶ大切な財産であり食べ物です。それに手を置く。つまり、私の代わりに献げるのです。もったいない!という痛みと犠牲を伴うのです。それは私の代わりなのです。

 そして、それはすべて焼き尽くして煙にします。思い浮かべていただきたいのですが、

朦々と立ち上る煙のもとに、肉の焼ける臭い、それが辺り一帯を被います。目で見るだけではなく、強烈な香り、いや臭い。鼻について離れない。祭司たちの服には、焼き肉の後に全身臭いが染みつくような場所が幕屋での礼拝の場所なのです。みな私の代わりに献げた。全焼のいけにえというのは、そのようなすべてを献げる「献身」を表すのです。

 私たちに求められていること、それは私たちのすべてをお献げし、お従いするということです。しかし、あなたの十字架に感謝し、すべてを捨てて、あなたにお従いしますと言いながら、どこかに残しておいてもったいないと思うもの、しがみついているものが私たち弱い人間には少なからずあるのではないでしょうか。そんな者たちに十字架のイエスはなお呼びかけて、礼拝に招いておられる。それは繰り返すことで、献身を新たにする。続けることで訓練されて、神のものとされていく。それを献げようではありませんか。