私たちのキリスト者の行動原理は常に、十字架で命を捨ててくださったキリストの愛に基づいているかです。ところが、目の前にあることにそれが生きているかというと、それとはほど遠いことが少なくありません。
ここで食べ物のこと、日のことを例に出していますが、語られている原則は、「人それぞれに感じていること、考えていることに善し悪しと言うことはできない。それぞれが主の御前に最善を尽くして考え、最善を尽くして行動している。それらは主の御前に尊重されなければならない」ということです。
百人いれば百の心があり、百人いれば百の意見があるでしょう。多数が同じ意見の場合もあれば、それぞれ異なるの場合もあるでしょう。問題はそれをさばき合うことにあるのです。私たちの心には「自分中心主義」という根源的な罪が深く巣食っているのです。その罪は、正論と呼ばれるようなものに覆い隠される場合が少なくありません。そして不満を募らせ、文句を口に、態度に表して人をさばき、交わりを壊すのです。
ここで私たちはひとりひとりが「生きるにしても、死ぬにしても、主のものです」と主の愛に応えて献身しているかが問われています。そして真に献身しているのであれば、このみことばに従って、周りの人を見る目は、理解に向けるはずです。そればかりではなく、命を与え、こんな罪人の私さえ尊い十字架の血潮で贖ってくださった神への感謝と賛美へと向かうのです。
震災を巡って、人それぞれ思いや対応は異なるでしょう。また、それはそれにとどまらず、日常の私たちのあり方に関わることです。決して人をさばくことなく、自分に与えられた分を主にあって、精一杯果たさせていただこうではありませんか。
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