「私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の救いは神から来る。」(62:1)
詩篇62篇はダビデの賛歌です。困難のただ中にあって、ダビデが選んだのは沈黙を守り、神さまの救いを待ち望むことでした。
ダビデは能力のある優れた人物でしたが、自分の力や他人を拠り所とするのではなく、どんな時にも神さまの救いに望みを置いていました。なぜ、そのように委ねることができたのでしょうか。ダビデにとって神さまとは遠い存在ではなく、「わが岩。わが救い。わがやぐら。」だったのです。敵が襲って来ても決して揺るがない安全なやぐら、力ある岩が、神さまであるのだと経験を通して知っていました。
私たちにとって神さまはどんな存在でしょうか。そして、神さまだけを頼りとしているでしょうか。才能や財産、社会的立場や家族など、私たちが恵みとして頂いている素晴らしいものを神さま以上に頼りとしてしまうなら、それは危険なことです。私たちが本当に頼ることの出来る望みを知るために、神さま以外には全くの失望を経験するかもしれません。そして、唯一の望みを見いだしたならば、困難にぶつかった時でも不安や不平不満のことばを収めるべきではないでしょうか。もう結論は出ているのです。あとは委ねた沈黙を持つことです。
「私たちの救い主なる神と私たちの望みなるキリスト・イエス」(Ⅰテモテ1:1)
キリストご自身が私たちの望みであると記されています。私たちの罪を背負い、十字架の上で身代わりとなって下さったキリストは、永遠のいのちという最大の希望を私たちに与えて下さいました。既に受けている望みを忘れることなく、黙してただ神を待ち望む歩みをしていきましょう。