「心の耳を開く人に」使徒28:16-31

 ローマに着いたパウロは、ユダヤ人の主だった人たちを招きます。彼らはパウロについて何も知らされてはいませんでしたが、この道に多くの非難を耳にし、自分の耳でことを確かめたいと招きに応じます。パウロはそこで聖書を通して証しするのですが、ある者は信じ、ある者は信じません。福音を伝える働きは困難です。主のために一生懸命に労苦しても成果がでない、ことが変わらないというとき、落胆したり、疲れたり、勇気や意気をくじかれたりするのです。

 パウロがそこで口にしたのはイザヤ6章のことばです。開いてみると預言者イザヤが主の前に「ああ。私は、もうだめだ」と言う場面です。聖い神の臨在を見て、「私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。しかも万軍の主である王を、この目で見たのだから」と言うのです。そのイザヤに主は祭壇の燃える炭火をして「見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、あなたの不義は取り去られ、あなたの罪も贖われた」と言ってくださるのです。

 彼は祭壇の炭、つまり、いけにえを通して贖われた者。ただ恵みとあわれみによって遣わされた者であることを思い起こさせるのです。パウロも同じです。迫害者であった彼、主イエスの十字架によって贖われたのはただ恵みによること。それがここに遣わされている。人は自分がどこから贖われたのかを決して忘れてはならないのです。

 続くことばは、一方的なさばきのことばであるより、むしろ、それを聞いて悔い改めるべきことを迫ることばです。「主よ。くちびるの汚れた者、さばかれてしかるべき者に過ぎませんが、あわれみをもって救い給え」とお答えする者が起こされるようにと。そして耳を開く者を主が起こしてくださるのです。

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