「さばいてはならない。」その理由は、さばかれないためです。それは、いつも批判ばかりして人のあら探しをするような人は、同じように人からさばかれるという当然のことだけではありません。神のさばきを受けるものであることをわきまえよと語っているのです。聖書はさばきについてを教えていますが、そこには大きく3つの区別があります。
第一のそれは永遠のさばきです。ヨハネの3章では、すでに主イエスの十字架の贖いゆえに救われたことが明言されています。
第二のそれは世における主の懲らしめ、訓練としてのさばきです。1コリント11章は聖餐についての教えがありますが、そこで、ふさわしくないままで聖餐にあずかることの罪と自己吟味について教えられています。飲み食いが自分をさばき、弱い者、病人、死んだ者すらいると言われるのです。人は得ることで学ぶことはわずかです。失うこと、神の懲らしめによって多くを学びます。主はそのようにさばきを用いられます。
第三のそれは主のさばきを恐れ、身をきよく保つことです。偽りやねたみ、そのような思いが人の心を支配することが少なくありません。欲にかられナボテのぶどう畑を奪ったアハブとイゼベル。ソロモンのもとに乳児をとりあう二人の遊女。アナニヤとサッピラ。神の御前にある恐れの欠如はさばきを招きます。あなたはどうでしょうか。
ですから、その御前に自ら人を裁くような者ではないことをわきまえ、自分自身を吟味せよと主は言われるのです。人に対してあわれみ深くちりを取る者は、山上の説教の冒頭にあるように、まず、自らの梁を取りのけるものです。心貧しく、自らの罪を悲しみ、荒ぶる心に柔和をいただき、義に餓え渇いてこそあわれみ深くあるのですから。