アブラハムの選びと契約、それに求められたのは「割礼」というしるしでした。奴隷のエジプトから贖い出された民に与えられた契約、そのしるしは「律法」です。祭司の王国、聖なる国民としての選びに応えるものです。しかし、荒野の40年の放浪、ヨルダンを渡ってカナン占領後も右に左に逸れます。12人の士師が起こされた後、王を求めた民にサウルが立てられました。それが斥けられてダビデが立てられました。ここが旧約聖書のピークです。はじめて「とこしえの王国」が示されたのです。
ダビデは王権が確立して安息を与えられると、神殿を建てることを志し、預言者ナタンに助言を求めます。すると彼は「あなたの心にあることをみな行いなさい」と言うのです。人の判断、それは常識に委ねられているものと、霊的な主のみこころを求めるものとがあります。主が命じもしなかったことですから慎重であるべきでした。しかし、その求めを超えることをナタンを通して主がダビデに示されました。
それは神ご自身が「とこしえの王国」を立てるというご契約です。恵みは取り去られることなく、とこしえです。ダビデにとっての永遠とはこのイスラエルの永続です。やがて弟子たちが期待したのもダビデの王国の再来です。しかし、主のご契約ははキリストを通して、神の新しいイスラエル、つまり神の国を永遠に立てるというご契約なのです。
ダビデはとるに足らない小さなものを選び導いてくださった感謝とともに、はるか先のことまでも知らせてくださったことに驚き、ことば巧みな彼ですが、ことばを失います。あまりに大きなご計画を知らせてくださったからです。そうだとしたらなおのこと、異邦人であったこの小さな私たちがあわれみによって選ばれ、この「とこしえの王国」に招き入れられたということはなんという光栄なことでしょうか。その恵みに感謝し、王国の民にふさわしく生きることを祈りましょう。