「どれだけ頑張っても」マルコ14:66-72
イエス様の逮捕、その場でつまづいた弟子たちの姿は、表裏ある人の姿、暴力に訴える人の姿、困難に向き合えず逃避する人の姿でした。そして、イエス様の裁判、そこでは偽善を暴かた者たちが自らの義を立てようとする姿、そのためには拒絶と迫害する姿が明るみにさらされました。
その裁判の行われた大祭司の家の庭までついて行ったのがペテロです。ペテロはイエス様がつまづきの予告をしたときに、「たとい全部の者がつまずいても、私はつまずきません」と言い、さらに、3度の否認の予告をされると、「たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません」と豪語しました。そして、その通りに他の者が逃げ去った跡も最後の一人となったのです。
しかし、そこで彼はイエス様を三度否みます。なんて意思が弱いんだ。そうでしょうか。彼は精一杯頑張ったのです。でも、最後の最後で、やっぱり自分の身を守ろうとするのです。先につまづいた弟子たちも、拒絶し迫害した者たちも、共通するのは最後は己の身を守る保身です。8月になりますと、戦争の記憶から私たちは我が身を問い直します。戦後、戦犯として裁かれた人たち、同じようにギリギリの場に立たされると、みな保身に腐心する。それが人の姿です。
私たちは頑張って努力で道を作ろうとする心が染みついています。しかし、どんなに固い決意も吹き飛び、砕け散ってしまうのが私たちです。一方で、イエス様はそんな人の自分勝手な振る舞いの中、あえて十字架を耐え忍び、黙々と自らを明け渡そうとしておられる。そのすべてをその身に負ってくださった。私たちが招かれているのは、ただ、あわれみによって立たされていることを心に刻むことです。我が内に何のよきものなし。ただ、あわれみのみ。それを新たにしようではありませんか。