「まだ悟らないのか」マルコ8:1-21

 7つのパンで4千人が養われた奇蹟は、6章の5つのパンで5千人が養われた奇蹟と並行しています。違うのは一方がユダヤ人の間で行われ、もう一方が異邦人の間で行われたことです。それぞれ12のかご、7つのかごに余ったのは、ユダヤ全体と異邦人に福音が満たされ溢れていくことを予表することです。

 さて、パリサイ人の生き方は偽善。表向き、口先、きよさを見せているが、中身は伴っていない。いわばハリボテの姿です。それに対してイエス様は、人の内側こそが問われるべきであることをお教えになりました。そのパン種は表向ききれいに見えるが内側はきよめられてはいない、体面を生きる生き方です。ヘロデのパン種とは、バプテスマのヨハネを捕らえながら、その教えを喜んで聞いていた中途半端さです。どちらもイエスのことばを素直に受け入れない頑なさがありました。これにくれぐれも注意しなさいと言われるのです。

 そして、弟子たちはまだ悟らないのかと問われます。二つのパンの出来事、これまでのイエスのわざが示していることに目を留めるようにという招きです。それはイエスが神の子であられ、イエスの元に来るなら溢れる恵みがあるということです。「わたしがいのちのパンです」(ヨハネ6:35)とイエス様は言われました。パンは私たちが生きるに欠かせないものです。そこにまかやしのパン種が入り込んでくる。一方で、イエスのパンを食べるとき、私たちは聖餐に与りますが、それは十字架とよみがえりの主イエスをこの身に生きることです。そのときに、私たちが満たされる以上に、恵みは溢れ出るのです。

 「伝道とは溢れること」ということばがあります。それは主イエスご自身に満たされる歩みであり、その恵みによって内側から造り変えられる生き方です。それが表に溢れ出る歩みをするように私たちは問いかけられているのです。あなたはそれを悟っていますか。