ラザロが病気になり、使いが来ますが、イエスはなおそこに二日とどまります。そして「この病は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためだ」と言われます。イエスはユダヤで石打ちにあって殺されかけました。だからそこを避けてここにいるのです。ラザロの死を告げ、なおユダヤに行こうとイエスが言い出したとき、トマスは「私たちも主とともに死のうではないかと弟子たちに呼びかけます。
それは革命のために死をも覚悟して立ち上がろうという呼びかけです。私たち人間はしばしば思います。私が不幸せなのは周りのせいだ。周りが変われば私も変わる。政治が国がと思うのです。しかし真実は逆です。「私が変わらなければ、人が造り変えられなければ周りも国も変わらない」のです。
さて、イエスがベタニヤにつくとすでにラザロは死に、マルタもマリヤも周りの人たちもみな嘆き悲しんでいます。「もし、ここにいくてくださったなら・・・でももう遅いのです」と口々に言うのです。イエスは霊の憤りを覚え、心の動揺を感じ、涙を流されました。それは人が死という闇に縛られていることへの嘆きです。人の力ではどうやっても乗り越えることができない壁、人の最後の敵、しかしそれは罪の壁でもあるのです。なぜなら、死は罪の結果のさばきであるからです。
主イエス様はそこによみがえりという鮮やかな勝利をくだり栄光を表されたました。それは人にできないどんなことも、神にできないことはない。すべてのことに主が力と権威を持っておられるということです。ならば、私にはできなくても、主がことをして下さるならば、どんなことでも、「やり直せないことなどありゃししない」。その信仰によって歩もうではありませんか。