洗足の出来事はよく知られています。過越の食事の場でイエス様が弟子たちの足を洗ってくださったのです。すでに食事の席に着くには足は洗っていたでしょうから、エス様が弟子たちへ愛を「残るところなく示された」のです。だからその模範に従うようにという単なる教え以上のものです。それは、この出来事が象徴しているのは十字架の愛と贖いだからです。
ペテロは「決して私の足を洗わないでください」と言います。人はどこかしら「自分の汚れは自分で洗える」という高ぶりがあります。罪や弱さを認めるのは『カッコ悪い』からしたくないのです。恵みを受け取るには自らがままならない「心貧しい」者であることを認め、すべて身に着けているものを脱ぎ捨てる「狭い門」から入らなければなりません。
一方、ペテロは「わたしがあなたを洗わなければ、…関係ないことになります」と言われると「主よ、足だけでなく、手も頭も洗ってください」と言い出します。イエス様は「水浴した者は…全身がきよいのです」と言われます。それは、イエス様の洗い、十字架の贖いですべてがきよめられることを象徴しています。ただただ、恵みによってどんな罪も、どんな汚れもすべてが聖められる。だから、アメージング・グレイスなのです。
その恵みをいただいた者として、イエス様が愛されたように、十字架でいのちを捨てる愛をもって互いに愛し合う。それがイエス様が与えてくださった平和の方法です。私たちは歳を取れば知恵深く愛の人になるかというとそうではありません。信仰生活の年数を重ねればそうなれるわけでもありません。また、こうできると言い切れる者でもありません。「Just Today」今日一日!そうあらせてくださいと祈り始めるところに御霊の助けをいただいて、主イエス様を見上げて愛する力が与えられるのです。小さな私から主の平和の器となるように歩もうではありませんか。