「イエスの権威」マタイ7:28-29

 山上の説教の最後の2節は付け足しのように見えるところですが、聞いた者がどのように受けとったのか、イエスの教えに対する反応が記録されています。それはまた、あなたはどのように受け取るのかという迫りです。

 群衆はイエスの教えに驚きます。それは律法学者のようではなかったからです。彼らのように学があったわけでもなく、ナザレという一寒村の大工。しかし、その教えは教師たちが様々な引用を持って語ったのとは全く違い、「私は言います」と権威あることばで、人々に迫りました。

 その権威あることばの前に、聞く者は「するかしないか」、「従うか否か」が問われます。山上の説教の教えを振り返るならば、その後半、私たちに迫ってきたのは、神の国とその義をまず第一に求める生き方であり、自分中心から神中心へ、自分中心から他者中心の生き方、愛のいのちへの変革でした。

 それはイエスが誰だと信じているのかにかかってきます。ピリポ・カイザリヤで弟子たちに尋ねられたとき、ペテロは「あなたは、生ける神の御子キリストです。」と答えました。そして、続いて「たとい全部の者があなたのゆえにつまずいても、私は決してつまずきません。」とイエスに従おうと決意を言い表し、イエスは「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」と迫りました。自分を捨てるとは、弱くあてにならない自分、努力によって乗り越えようとする自分を捨てることです。十字架を負うとは自分が罪人であることを覚え続けることです。その重荷はイエスが負って下さった。その恵みに信頼し続けることです。そのようにしてイエスの権威の前に従うこと。それこそが神の国を生きる者に幸いなのです。