ツロからシドン、デカポリス地方を通り抜けてガリラヤ湖へ来たイエスのもとに、「耳が聞こえず口のきけない人」が連れて来られました。イエスは「ご自分の指を彼の両耳に入れ、それから唾を付けてその舌にさわられ」、天を見上げ(祈り)、深く息をして(彼のためにうめきとりなし)、「エパタ」(開け)と言われると、すぐに彼の耳が開き、舌のもつれが解けて、はっきり話せるようになりました。その喜びは口止めされればされるほど、言わずにはいられない大きなものでした。
人々は非常に驚き、言うのです。「この方のなさったことは、みなすばらしい。耳の聞こえない人たちを聞こえるようにし、口のきけない人たちを話せるようにされた。」注目すべきことは、この方のなさったことは「みな」と言います。耳のきこえない「人たち」であり、口のきけない「人たち」と言われていることです。人々が言った言葉は複数形です。これまでイエスが行ったみわざを総括するように言ったことばだということです。
この「みなすばらしい」ということばは、創世記の創造のみわざと重なります。「神はご自分が造ったすべてのものを見られた。見よ、それは非常に良かった。」(1:31)残念ながら、私たちには多くの傷や痛みがあって、そうは言えない現実があります。それは罪ゆえです。この「みなすばらしい」と喜ぶことばは、イエスがおられるところ、みな回復が与えられる。その目に見えるしるしでした。
そして、真の回復はこれからイエスがしようとしておられる十字架と復活という救いのみわざです。罪を負って贖いの代価として十字架に死に、私たちに与えられる赦しによって、よみがえりの勝利によって、新しいいのちに生きる新生によって、私たちは、「みなすばらしい」と神を讃える者に回復させられていくのです。主イエスのくださる回復に、それを賛美する歩みをしていきましょう。