キリストこそ知恵と知識の宝のすべて。それがゆえに「キリストに根ざし、建てられ、堅くし、感謝するように」とパウロは教え勧めました。続けてパウロは「あなたがたは、キリストにあって満たされているのです。」(10)と言います。注意していただきたいのは、すでに「満たされている」ということです。
どこか、私たちはまだ達していないとか、十分でないとかそういう思いを持っていて、すでに与えられている恵みに足したり引いたりする思いが入ってくることがあるのです。すでに、1章では「キリストこそ、神の満ち満ちた性質が宿っている(19)と語られていましたが、ここでは、「キリストはすべての支配と権威のかしらです。」(10)と私たちの努力や思いではなく、キリストにこそが力であることを強調しているのです。
ここに割礼という語が入ってきます。割礼はユダヤ人が信仰のしるし、神との契約のしるしとして体に刻むように命じられたものです。しかし、それはいつしか選民意識となり、「私ユダヤ人、神の選びの民、あなた異邦人」と隔ての壁となりました。そして、キリストによる恵みで十分であるにもかかわらず、異邦人にも割礼を強いるようなことが起こっていたのです。エルサレム教会会議(使徒15章)では、「信仰のみ」と確認されたにもかかわらず、それは幾度も教会に入ってきました。
割礼は肉のからだの割礼ではない、キリストを信じる信仰によるバプテスマ=洗礼にとって変わりました。バプテスマは古い自分に死に、キリストを信じる信仰によって新しいいのちに生きるしるしです。そして信仰の告白、ただ恵みにこたえてキリストに生きる告白です。そこには、キリストの他に何ものをもないことを信じるのみです。この恵みの豊かさこそがすべてであること、すでに「満たされていること」。ここから外れることなく、しっかりと立って行こうではありませんか。