今年、このみことばを掲げてともに歩みしたいと願っています。昨年はクリスチャンセンター解体と会堂の一部リフォームという節目で、教会の歴史65年、若者中心の教会が三世代、四世代同居する教会になりました。赤ちゃんから高齢者まで様々な世代、その世代の中でものの感じ方、考え方も違います。それが一つ教会に集められているのです。
世の中、罪のため「不公平だ。面白くない」というもので溢れてます。それはカインから始まって、いつも人の交わりを壊す私たちの罪です。一方で、教会はキリストに救われた者が呼び集められたキリストのからだです。そのからだとして生きるということはどういうことでしょうか。
教会のあるべき姿、目指すべき姿、それは互いに配慮し合い(いたわりあい)、ともに喜び、ともに苦しむことです。からだにどこか傷があるならば、全体が痛み、苦しみ、不便、不自由を感じます。私たちは、どうにもできないもどかしさをいつも抱えています。言葉にできず、そおっとして待っていなければならないことがあります。ともに負い合うのです。
また、からだの一部として担うべき役割があります。「神の御霊がわたしたち一人びとりに分け与えられくださるのは、私たちがふたたび一緒に持ち寄るためである」とカルヴァンは11節を訳しました。世はそれを能力と呼びます。そうなったときに、私たちは時に誇り、時にいじけます。星野富弘さんの素晴らしい詩画、彼が描くために絵の具を混ぜる人から、世に送り出す出版の働きをする人など、多くの人がいてはじめて人に感動を与えることができます。彼の働きは共同作業なのです。
どれだけからだ全体に関心を持っているでしょうか。傷がどこかにないだろうか、自分の与えられた役割はなんだろうか。それを問いながらともにキリストのからだを生きましょう。