弟子たちの「誰が一番偉いのか」から始まるイエスの教え、それは人と人との交わり、イエスの弟子として生きる原則です。この箇所では、私たちの仲間でない者がいやしをしている。それに関わることが中心です。いったいイエスは何を問うておられるのでしょう。
ヨハネが見つけたのは、自分たちの仲間でない者がイエスの名によって悪霊を追いだしているということです。このすぐ前で、栄光の山から降りてくると、地上では弟子たちが口をきけなくする霊を追い出すことができなかったという出来事が記録されています。私たちについてこない、仲間でもない者が、というのは、そこにどこか、嫉妬ややっかみという思いがはいってきたのだと思います。
イエスは言います。「やめさせてはいけません。わたしの名を唱えて力あるわざを行い、そのすぐ後に、わたしを悪く言える人はいません。わたしたちに反対しない人は、わたしたちの味方です。」ところが、私たちの心はそのような心広いイエスの名を小さいものにしてしまうのです。主の名によってなされることは私たちが「いい」とか「悪い」とか判断するべきものではありません。私たちの心はどこかうまくいっていることがねたましく思えたり、やっかみが入ったり。そして、自分の正当性ばかりを主張して人をさばくのです。そのようなことはしなくていいのです。
さらに、一杯の水、たかが水一杯と私たちは思います。水が豊かなところに暮らしているからです。だから、一杯の水というより、一杯のお茶と言った方がピンとくるかもしれません。心配って、相手のために配慮することです。私の名のゆえに「徹底して仕える」ことです。それを主は喜んでくださるのです。互いの間、そこに徹底して仕えることを主は喜んでくださるのです。今、できる「一杯の水」がないでしょうか。それこそキリストの名を生きることに他ならないのです。