キリスト者の成長、それは何によって測ることができるでしょうか。それは愛です。この2章のことばは「ですから」ということばで始まっていますが、1:22の「互いに愛し合え」ということば、新しく生まれ、生き方の向きを変えられたあなたがたの向かうべき道は愛だと言うのです。
そのために捨てるべきものがある。私たちは救いをいただいて一度きれいになったから大丈夫などということはありません。捨てても捨てても、でてくる思いがある。だから、心の掃除の達人にならなくてはならないのです。アダムとエバの堕落以来、人はいちじくの葉で身を覆います。自分のプライドを守るために、でてくるのは「ごまかし、偽善、ねたみ、悪口」です。
どのようにしてそれを捨てるのか「生まれたばかりの乳飲み子のように純粋なみことばの乳を慕う」ことです。それがなくては生きていけない、みことばへの渇望こそが成長の鍵です。一方、私たちには聖書に向き合えない、祈ることすらままならないようなときが来ます。ペテロはそれをよく知っていました。ですから、あわれみ深い主のもとに来なさいと教えます。
復活の主はガリラヤ湖で弟子たちに会います。夜通しの漁で何もとれなかったところ、舟の右側に網を下ろしてみなさいと呼びかけました。そしてその網がいっぱいになったとき、ペテロは最初にイエスに従ったときのように何もかも捨てて湖に飛び込みます。岸辺では主が炭火を起こして食卓に招き、「あなたは私を愛するか」と聞いて下さいました。すべてを知って、そのままありのままの彼をあわれみ深く受け入れて下さった。私たちも同じです。プライドを捨て、受け入れて下さる主のもとに行こうではありませんか。