「ハリボテの偽善」マルコ7:1-13

 人の定めるルールは相対的です。ある時代に正しいことが、必ずしも今に当てはまるわけではありません。神の戒め。それを人はどのように受けとってきたでしょうか。

 ガリラヤのイエスのもとにエルサレムからパリサイ人たちと律法学者たちが来ました。イエスの評判を聞きつけ、確かめに来たのです。そこで彼らは、「イエスの弟子のうちに、汚れた手で、すなわち洗わない手でパンを食べている者があるのを見て」、咎めます。「きたない」からではなく「けがれている、聖めていない」からです。アディアフォラということばがあります。明確に命じられても、禁じられてもいないことで、信仰者の良心と判断に委ねられている事柄をそう呼びますが、主イエスににとってはそういうものだったのです。

 イエスは、彼らのそれを偽善と呼びます。偽善とは、仮面をつけて演じる役者を意味することばです。表向き、口先、きよさを見せているが、中身は伴っていない、いわばハリボテの姿が彼らの姿です。それを実に「見事に」やっていると言います。イザヤ28章には『戒めに戒め、戒めに戒め、規則に規則、規則に規則、ここに少し、あそこに少し』ということばがありますが、戒めを守ることだけに終始すると、守るために付け加え、付け加えし、本来の意味を失ってしまうのです。その一つの例がコルバンになったと言って、父母への務めをないがしろにしてしまうのです。

 私たちには、何が求められているのでしょうか。「すべてのことが許されている」けれど、「食べるにも飲むにも、何をするにも、すべて神の栄光を現すためにしなさい。 」(1コリント10章)のことばをいつも覚えるべきです。表向きではない。内なる心に、このことは神の栄光を表すにふさわしいだろうか。戒めの中心は神を愛し、隣人を愛することです。とかく形ばかりのものになりがちな私たちです。内実ともにそれにふさわしくと祈り歩みましょう。