「ピラトもペリクスも」使徒24:1-27

 パウロはカイザリヤへ護送され、総督ペリクスのもとに訴えられます。ユダヤ人らは権力者を前に自分たちの訴えを聞いてもらうためには手段を選ばず、心にもないおべっかを使います。パウロは自らの潔白を主張しますがペリクスは裁判をのらりくらり先延ばしにします。それは役人である彼の金をもらいたい下心であり、またユダヤ人に恩を売るための方便です。そんなことのために苦しみを受けるのです。

 ペリクスは、この道について相当詳しい知識を持ち、幾度もパウロを呼び出しては話しを聞くのですが、恐れを感じて一歩踏み込みません。それはピラトのときも同じでした。イエスに罪はないことがわかり、「真理とは何ですか」と尋ねながらもそれ以上は進みません。パウロは2年の間、軟禁状態にされます。実に、私たちの周りにもそんなピラトやペリクスがいるのではないでしょうか。

 パウロの思いはどうだったでしょうか。何を思い、何を支えに歩みをしたでしょうか。同じ時代をともに歩んだペテロは「不当な苦しみを受けながらも、神の前における良心のゆえに、悲しみをこらえるなら、それは喜ばれることです」(1ペテロ2:19)と語りました。キリストご自身も「ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せに」なったからです。

 パウロは「患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出す」(ローマ5:3,4)と言います。その希望とは、神の愛の圧倒的な勝利です。よみがえりの主は勝利の主です。その愛がどんなところにあっても私たちを支えてくださる。すべての労苦も忍耐も私たちを神に近づけ、喜び生きることができるのです。

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