「一致は神の御前に立ってこそ」使徒15:12-29

 教会会議で導かれた救いにとってどうしても必要なこと、それはただ「信仰のみ」ということでした。一方で、ユダヤ人と異邦人の間には大きな習慣の違いがありました。その溝を埋める一致のための行動原理として4つのことを彼らは決めました。それは大きく分けると二つのことです。第一に聖い神の御前にふさわしいのか、第二に弱い者に合わせて愛によって行動するということです。

 彼らが決めた4つのうち、偶像に供えて汚れたもの、絞め殺したもの、それは食に関することです。食べることは人が生きている以上、避けて通れない大きな問題です。飲み食いで人は不平を言い、争います。ユダヤ人は偶像にささげたもの、殺生のためにお祓いをしたり、いのちの象徴である血を流さずに絞め殺したものなどは食べませんでした。第一コリントではそのことが扱われています。ユダヤ人にとってはいくら「すべてのものはきよい」と言われても、心が追いつかずに罪悪感を覚えるのです。その弱い心を踏みにじるなら、それが罪であり交わりを壊します。

 異邦人にとっても不品行が罪だとわからなかったわけではないでしょう。しかしこれまでの生き方から贖われはいても、からだはからだ、心は心と分けて考えるような二元論、ダブルスタンダートがまかり通るようなことがあったのでしょう。血もそうです。血はいのちの象徴。そのいのちの価値が軽んじられるようなことが少なくなかったのでしょう。

 彼らはこれの決定を「聖霊と私たちは」と言います。教会の決定は単に人の申し合わせや決まり事ではなく、聖霊が導かれたことだと受けとったということです。私たちも一致はこの原則を踏まえ、神の御前に立ってこそ導かれるものだということをいつも忘れないでいましょう。

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