「主とともに平和を生きる」1テサロニケ5:10-24
8月は平和を覚えて祈る月です。戦後75年、生き証人が絶えようとしています。そこをくぐり抜けてきた人たちはその悲惨さを身に染みていますが、それが絶えたとき、同じ過ちを繰り返してしまうのが、愚かな人間です。
「最もローカルなことは最もグローバル」別のことばはで言えば、「愛は近きより」。山上の説教は「心の貧しい人は幸いです」から始まって、「平和を作る人は幸いです」に至り、さらに「あなたがたは地の塩、世の光です」と続きます。声高に平和を叫ぶことよりも、内なる人、そして、最も身近なところから世界の平和は始まるのです。
今日心に留めたいのは、よく知られているこの箇所です。まず第一に、「いつも喜んでいなさい」です。この言葉は挨拶のことばでもあります。私たちの心は挨拶に表れます。そこが平和の第一歩です。続いて、「絶えず祈りなさい」です。イエス様が十字架でご自身を明け渡すには、ゲッセマネの祈りの勝利ゆえです。「絶えず祈る」ということは、目を覚まして、イエス様とともにいることです。そして、イエス様の祈りを我が祈りとして祈ることです。眠ってしまった弟子たちが目を覚まして祈る者になったのです。
そして、「すべてのことについて感謝しなさい」です。私たちは、怠惰な者にイライラし、小心な者をを叱りつけ、弱い者を見捨てて、すべての人に対して赦せない者です。そして、悪に対しては「倍返しだ!」と憎しみを募らせ、善どころか、捨て台詞を言いたくなる者です。それが罪深い私たちの心です。それこそが、平和を乱すのです。求められているのは、徹底して赦し、徹底して愛によって受け止め、私たちを超えて働かれる神に感謝することです。
平和、それは主とともに生きる者が身近な生きる場から、その輪が重なり重なり、世を覆うように祈ろうではありませんか。