姉マルタは喜んでイエス様を家にお迎えしました。妹マリヤは、自らの意志により「主の足もとに座った」のです。一方のマルタは、私は一生懸命に仕えているのに…と、妹に対するねたみが心の中に起き、主に対する不満ともなり現れてきました。マルタは主に対し「多くのこと」をしなくては。と気を取り乱しました。一人で出来ることは限りある中で、次第に心身が疲れ、ただ主の側に座っている妹への苛立ちが増してきているのです。しかし、主は彼女の心の内を見抜いておられました。『マルタよ、マルタよ』と愛を込め一度ではなく二度繰り返し呼びかけました。
ここでのマルタも、愛を実践したい人でした。しかし、主の話をただ聞いている妹の姿が目に入り、「自分とイエス様」という関係から、「自分とマリヤ」という関係の中で、様々な感情に支配されています。
主は必要なことは「一つだけ」と言われました。マリヤはただ主のことばを求めましたが、一方のマルタは自分の思いと行動が先立ち、主よりも妹のマリヤの姿が次第に目に写り、主への思いは次第に歪められているのです。
私たちは、マリヤを肯定し、マルタを否定しがちになりますが、聖書は、私たちの内にもマルタがいないかと問うてはいないでしょうか。教会での奉仕や普段の生活の中で、積極的にしている行動も、周囲の人や状況により、様々な感情に支配されてしまうことはないでしょうか。そんな時、自他を責め、疲れてしまうことも起こるのではないかと思います。そうならないために、日々みことばを求め、主との関係を深くし、内から生まる感謝と喜びと平安をもって主に仕えていきたいと願わされます。そのためには、主のことばを一人鎮まり聴くことが大切です。
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